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なぜ心理学なのか?ー信じるものを"決める"ということ。無数にある叡智の中から選ぶこと、選べる自分でいること、自分の感覚を信じ抜くこと。

みなさん、こんにちは!
カウンセラーの卵ならぬカウンセラーの種 Miyuu Yです。

前々から少し書いては休憩を繰り返してたブログをやっと出せる気がする…といそいそと書き綴っています。(2024.8.27 19:22現在)

私は現在、心理カウンセラー根本裕幸先生のもとで学んでいます。きっとこのブログに辿り着いてくださった方も心理学に興味のある方が多いのではないでしょうか。

世の中には様々な知恵や叡智がある中で、なぜ私が今「心理学」を学んでいるのか。なぜ心理学を使おうとしているのか。

の理由、そして私にとっての心理学とは何か。をお伝えしたいと思います。
どういう言葉遣いで話すのが伝わるのかわからなくなったので、書き綴ったままに公開いたします。(いよいよ投稿に辿り着くのか…!?)


●人生を心地よく生きるための叡智は無限にある。そして、そのどれもが正解でどれを選んでも良い。


人が生まれてから死ぬまでに直面する数々のこと、それに伴う感情。それらとどうやって付き合っていくか。

嫌な感情を抱えるのって苦しいですよね。走って逃げられるわけでもない。薬を飲んで治るわけでもない。嫌な感情をいくら人に話したところで、その瞬間に消えてなくなるわけじゃない。

感情というのは、自分1人で感じるものです。時に恐ろしいほどの孤独感や怖さを伴います。だからみんな、あらゆる手を使ってその“嫌な感情”から逃げようとしたくなる。

不快な状態でいたくない。

裏を返すと、究極的に私たちは、ただ心地よい状態でいたいのだよね。なんて思っております。

生き方、働き方、人間関係、心の傷、自分を知ること等々…尽きない悩みとくっついてくる感情。それらとどう向き合っていくか。

学びや気づきを与えてくれる、生きる上での指針を示してくれる叡智というのはこの世の中にごまんとあります。安定して心地よい状態でいるに至る方法というのは無限にあります。


わかりやすいところから、哲学、宗教、武道、書道や華道など昔から続く“道”のつくもの、伝統芸能、スポーツ、音楽や芸術、大好きなこと(それはアニメかもしれないしギャンブルや旅かもしれない)、あらゆるお仕事、それだけでなく母としての役割、父としての役割、長女として次女として末っ子として一人っ子として…時に病気、心の傷も人生を導く軸となってくれますね。

思いつくものをさっと羅列したので偏りがありますが、どんなものや立場でももがいていく中で、人生との向き合い方や哲学を見出すのが人間なんだろうと思います。
素晴らしい先人たちは、それぞれの道の上で人生を悟り、叡智を紡ぎ、後に続くわたしたちにその知恵を伝えてくれています。


私の話になっちゃいますが、私の人生においても、いくつかの道で先生がいます。
ヨガ、フラメンコ、音楽、写真、自分の抱えるトラウマ…それぞれの道の師匠たちも、その人生で体現して素晴らしい背中を見せ伝えてくれています。そして私自身は道なかばの現在も、すでに多くの学びを与えていただいてます。

このような道がありながら、なぜ私は心理学を学んで、心理カウンセラーになろうとしているのでしょうか。


●私と心理学との出会い。


実はここ2年ほどの私には、心理学はそこまで必要なくなっていました。

もちろん問題がなくなったわけではありません。痛みや苦しみ、不快な嫌な感情というのは湧き上がってきます。
ただ、私には私を助け支えてくれる他の道があり、ある程度はうまく付き合えるようになっていたのです。


遡ること15年以上。心理学やカウンセラーというとの出会いは14歳の不登校時代でした。それ以来ずーとふやふやの私を守り、助け、支えてくれたのが心理学です。(時に心理学によって苦しむこともありながら。その時は使い方を間違っていたのですね。)

人生初めてのカウンセラーとの出会いは、あまりいいものではありませんでした。当時の14歳の私の感想は「なんだこのありきたりな言葉しか言わないおばさんは。どこぞの本で書いてあることをそのまま読んでる感じだな。良いこと言ってる風の自分に酔ってるんやろ。」という感じのものでした。

今冷静に思い返しても、カウンセラーというよりは説教好きなおばちゃん。という感じで、あまりいい記憶ではありません。
一時的にカウンセラーという存在に対しての嫌悪感を持ってた気がしますが、本当に、その後心理学を嫌いにならなくてよかったー!笑


その後、家族の問題や17歳の時に遭った出来事による強いトラウマに苦しんでいた私は、20歳ごろ父が見つけてくれた熊本の男性の心理カウンセラーの先生と出会います。


その先生が心理学を使って、今の自分や自分を取り巻く状況を理解する術を教えてくれました。そして人や自分の感情をどう取り扱うのかを。

あの時の世界が一変した感覚。この文を書きながら久しぶりに思い出しました。
長いこといた、どこをどうしたらいいかわからない八方塞がりの世界から抜け出すための、一筋の光を見たような感覚だったと思います。やっと呼吸が少しできるような。


根本先生を知ったのはそこから1〜2年後のことだったと思います。友人がブログの記事を教えてくれたのがきっかけです。
初めてブログの記事を読んだあの時の衝撃は忘れられません。笑

根本裕幸先生を知る以前の私が知ってる心理学は、どちらかというと学術的な体系をとったものでした。アカデミックなムードが強いと言いましょうか。

一方根本先生の心理学は、親しみやすい例、私たちに語りかける受け取りやすい言葉遣い、リアルな世界・社会に生きる私にストレートに響くものでした。

「こんな心理学、あったんだ!!!!」

そこからはもう、無我夢中でブログや著作を読みました。



●一時期陥った「どれを信じて良いかわからない」問題


私にとって心理学がいかに人生を支える相棒となってくれたか。というのは前出の文を読んでいただけるとお分かりかと思います。ですがそんな中、一時期私は心理学を含めて何を信じて良いかわからなくなったことがありました。


人間の心というものに興味津々だった私は、心理学だけじゃなく哲学や仏教や禅など宗教について勉強したり、社会学や歴史、脳科学、自然史、小説、映画、音楽、芸術、サブカルチャー的な世界…あらゆる学問からの好奇心と角度から人間のあらゆる側面を知ることが大好きでした。

いろいろなことを知る中で私は「一体全体、何が正解なんだ?ここではこう言ってて、あっちではこう言ってる。そこには矛盾がある気がする。でも真理が一つだとしたら?おかしくないだろうか。エビデンスエビデンス言ってるけど、一つを証明すると、反対の証明が出てくる。本屋でも正反対の言い分が隣り合わせに並んでるじゃないか。根拠があればさも正しいというような世の中なのに、どうなってるんだ。」

調べても調べても不安がつきまとう。

混乱とどこにぶつけていいかわからない孤独感と憤りがありました。


●そんな時に出会ったヨガの師匠と言葉


2022年。コロナ禍で、世の中に多くの人のさまざまな感情が蠢いていた年。
誰もがどう進んでいいか、何を信じたらいいかわからなくなっていたであろう年。私もそのうちの1人でした。

そしてその年に、ヨガの師匠と出会いました。

17歳でヨガの道へと進んだカナダ人の師匠のウェイロン先生。世界中を旅しながら修行を深め伝えてくださる師匠の古来の伝統に深く根差した叡智は、混乱状態だった私に世の中を見る目を、自分の人生を全うする強さを培わせてくれました。

中期滞在の合宿での修行中のある夜。
私はその時抱えていた不安を師匠のウェイロン先生に伝えました。

世の中にはさまざまな情報や考え方が溢れていて、どれをどう信じて、どう心の軸にして、どう頼っていいかわからない私はとても怖くて不安で混乱していること。
何を軸に判断すればいいのかもはや分からなくなってること。

ウェイロン先生は私の奥の奥まで見通すような、透き通ったブルーの瞳で私をじっと見据えてこう言いました。

「心が震えたものを信じなさい。」

私の心を覆っていたものがボロボロと崩れて、抑えきれないたくさんの涙と共に決壊しました。


●私が、あなたが、信じたいものを信じる。それだけ。


私がヨガの師匠の元へと行ったのは、師匠の言葉がするすると入ってきたからでした。一つ一つの言葉が心の奥の方を震わせたからでした。この人の言葉は信じてみたいと思えたからでした。


ヨガひとつをとってみても、さまざまな流派が存在し、さまざまな解釈、伝え方が存在します。

どれが一番正しいんでしょうか?

今の私はある意味で「全ては誰かにとって正しく、全ては誰かにとって正しくない。」と思っています。

いくら証拠を並べたところで、いくら権威のある博士や有識者が言葉を並べたところで、それを覆す反対の証拠はいつか出てくるかもしれない。何を持って終わりとするのか?何を持って結末として捉えるのか?

私たちは人間です。証拠の証拠の証拠の証拠…神様でもない限り、結末を知ることはできないでしょう。

命に限りある私たちにできることは、今、自分で何を信じるかを決めて、自分がどんな感情でいたいかを決めて、自分の人生を生きること。

自分で決め続ける。

その繰り返しなのだと、私は思います。



●改めて、私が心理学を選んだ理由

ということで、私は心理学が唯一無二の心を扱う知識や手段だと思っていません。たった一つの正解の道だとは思っていません。

だけど、私は心の底から心理学を信頼しています。

これまでから今まで心理学を紡いできた人々の、心理学の中にある積み重ねられた愛に敬服しています。

心理学は目に見えない心の世界を、言葉という目に見える形にしてくれていると私は思っています。無限に広がる心の世界を補完できるわけではないですが、私たちが受け取りやすい「言語」に変えてくれているのは、とてつもないことだと思います。

私の中にある、心地よい生き方につながる道のヨガやフラメンコや音楽や写真だけでは伝え切れないところを、心理学という言語が多くの人へ届きやすい橋渡しのような役割をしてくれると信じています。

フラメンコやヨガに関心のある人は限られますが、心理学という言葉を通して日本語を話す人全体へ届きうると思っています。ひいては、翻訳すれば言語を操る人であればどこまでも。

だから私は心理学を学んでいるのです。

心理学という媒介語を使って、たくさんのことをより多くの人に届けたいと思っています。


●おわりに


「問題の裏には才能がある。愛がある。」


私の心理学の師匠である根本裕幸先生の言葉です。

私はこの言葉に、考え方に、心が震えました。

私は根本裕幸先生の言葉を信じたい、と思いました。

だから、今、先生のもとで心理学を勉強させていただいてます。

繰り返しになりますが、心理学は唯一の心や生き方を知るための道ではありません。
ですが、とてつもない愛が込められていることは保証します。

これを読んでくれたあなたが、あなたにとっての心震える道を見つけているのならとても嬉しく、ぜひその感覚を無条件に信頼して歩んでいってほしいです。

また、心理学という道の上で心震える誰かの言葉やきっかけとの出会いがあったのだとしたら、心理学を学ぶ者としてこの上ない喜びです。


不完全な人間の私が、不完全な人間の生み出した心理学という知恵を使って、不完全なあなたの力になれることがもしあれば嬉しいです。

心を震わせるような出会いができるような、心と体の状態を作るお手伝いはもしかしたらできるかもしれません。

もし何を信じて良いか、わからなくなってしまった時は、羽を休めにきてください。
私は全ての人の"自分自身を信じきる強さ"を信頼しています。
あなたは大丈夫です。


長々とした文章をお読みくださりありがとうございました。
結局、0からもう一度心の赴くままにキーボードを走らせてみたら、無事にゴールまで辿り着けました。

文章のど素人のこんな長文誰が読むんだろうと思いながらも、ここまで辿り着けたことを噛み締めつつ、読んでくれた皆さんに感謝したいと思います。

明日と明後日は、台風の影響でお仕事がマルっとお休みになりました。その心の余裕が文を紡がせてくれた気もいたします。

大いなるものに感謝!

できれば近々、すぐにブログ上でお会いできることを祈っています。(私次第)

どうか皆さんが健康で幸福であり、愛と優しさに満ち溢れますように。

冒険の日々より、愛を込めて
Miyuu Y


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