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完璧主義をやめたい私が唱える言葉

私は完璧主義者です。何事にも完璧を求め、自分にも完璧を求め、理想の自分と完璧にできない自分とのギャップにイライラする毎日です。

そんな私が、時間をかけて完璧主義者を脱しつつあります。
それは、こんな言葉に出会ったのがきっかけでした。

「完璧には魔が宿る」

日光東照宮の陽明門は、「完璧には魔が宿る」という思想によって、柱が一本逆さだったり、目のない龍が彫刻されているそうなのです。

「完璧には魔が宿る」

ビビリで怖がりのわたしにとって、「魔が宿る」なんてとってもコワイことです。完璧主義歴ウン十年だったわたしが、「魔が宿るなんて絶対イヤです!完璧なんて要らないです!!」と、あっさり完璧主義から降りる決意ができたのでした。

もちろん、世の中には完璧が求められるものごとはたくさんあります。職人技、耐震建築、外科手術などなど…。でも、私のような平凡で小さな存在の日常のなかで、「完璧な必要なんかある?」と改めて自分に問いかけてみたら、そんな必要はどこにもなかったことに気づきました。

目の前に二人の人がいるとします。

一人は容姿端麗、おしゃれで、品格があり、誰とでも卒なく接することができて、仕事もきっちりとこなし、絶対に失敗しない人

もう一人は容姿もそこそこ、特別おしゃれでもなく、あらゆる場面でちょくちょく失敗をやらかすけれど、そんな自分を笑っていられる人

どちらとお友達になりたいかと言えば、私は絶対に後者を選びます。

だとしたら、一体私は何のために、誰のために、完璧を目指していたのか?完璧を目指す理由などどこにもないし、むしろ不完全であるほうが愛すべき存在でいられることに気づきました。

そう考えたら楽しくなってきて、私は「身の回りにある愛すべき不完全」を探してみることにしました。

まず一つ目は、お鍋。

ストウブという赤い鋳物の無水鍋を愛用しているのですが、ある日何かにぶつけてしまい、蓋の塗装が欠けてしまいました。とてもショックで「蓋だけ買い替えられないか」などと考え、欠けた部分を見るたびに暗い気持ちになっていたのですが、「この蓋の欠けは、私が毎日お料理と格闘している、がんばってる証拠。勲章だよ!」と思うようになって、欠けたお鍋がますます愛おしく感じられるようになりました。今では欠けた部分に目が行くこともありません。

お次は腕時計。

母が結婚した時に妹からプレゼントされたSEIKOの自動巻きの時計で、母から譲り受けました。53歳になるこの時計は、メンテナンスに出しながら大事に使っていますが、もうアンティークと呼ばれる古さのため、部品もなく、いつまでメンテナンスができるか分かりません。また、一週間に2分ほど時間がずれていきます。スマートウォッチや電波時計のように常に正しい時間を示してくれるものと違い、この子は正しい時間であるとは限りません。でも、そんな不完全なところが愛おしいし、自動巻きなのでいつも腕に着けて動かしてあげなければいけないところも、なんだか生き物と一緒にいるようで癒されます。堂々一位の「愛すべき不完全」です。

こんな「愛すべき不完全」を探していたら、自然と「不完全な自分だって愛すべき存在だわ」と思えるようになりました。

以前は小さな失敗をしただけで過度に自分を責め、ひどい言葉をかけていましたが、今は「まぁいいや」と切り替えることができています。「たらちねの」の後には必ず「母」が来るように、「あ、しまった」の後には必ず「まぁいいや」がセットになりました。大きな進歩です。

もう一つ。「愛すべき不完全」を探す過程で気が付いたことがあります。

完璧主義とは、「何事にも完璧さを求めること」ではなく、「不完全のなかに完璧さを見出すこと」ではないかと。

私は不完全の中に完璧さを見出す人でありたい。そういう完璧主義者でありたいと強く思いました。

そうは言いながらも、やっぱり色々と理想の通りにならない自分に対してモヤモヤとすることはありますが、そんな時は

「完璧には魔が宿る」

を唱えて、「まぁいいや」と切り替えるようにしています。

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