”当たり前”は本質を見えなくする
こんばんは、souです。
洗濯物を干そうと窓を開けたら、空気が春の匂いになっていて嬉しくなりました。
目が痒かったり、くしゃみが出たり、肌が痒かったりしがちな春ですが、わたしは断じて花粉症ではない。と言い続けている。そこに意味はないけれども。
さて、先日電車に乗っていた時のこと。
わたしは通勤に電車を利用しており、普段は音楽を聴いたり何気なくSNSを眺めたり、読書をしたり人間観察をしたり、まあ色々している。
最近自分の中でのホットトピックが「スマホ依存」なので、電車内での人々の過ごし方を観察するときは決まって、スマホをいじっている人の数を数えたりなんかする。
我々がスマホを操作しているのか、スマホが我々を操作しているのか。
そんなことを考えては怖いなあと思うけれど、なにを隠そうわたしは重度のスマホ依存症。
当たり前だけどメッセージの通知にはすぐ気付くし、職業柄即レスがマストなので、アイコンに通知バッチがついたままなんてことはまずない。
正直疲れる。衝動的にスマホを解約してしまいたくなることもある。便利がなければ不便もないのに、なんて。
本題に戻ります。
先日、スマホ依存症かつ自称NO MUSIC NO LIFEのタワレコ的なわたしが、電車で音楽を聴いていないことに気付かなかったことがあった。
ただ、なんだかいつもより時間の流れがゆったりしているなあと、車窓から見える景色をぼーっと眺めながら電車に揺られていたわけなんですが。
音楽を聴いていないことに気付いてからも、なんかこのままでいいかもと思って、結局終点までそのまま電車の音を聞きながら座っていた。
いや、起こったこと自体は、は?それだけ?って感じだけどね、これは気付きという点では大きかった。
電車に乗ってAirPodsを耳にぶち込んで音楽を聴くなんてこと、最早寝ててもできるくらい当たり前の行為で、「音楽を聴きたいからイヤホンをつけて聴く」という本来の目的は失われつつあった。
更に言えば、わたしは別に常時音楽を聴きたいと感じているわけではなかった。
冒頭にも書いたように、空気の匂いとか景色とか音とか、五感をフルに使って季節や時間を感じ取るタイプなので、時として音楽を聴くという“作業”は、目の前にあるものを色褪せさせる。
何事も作業になってはいけないと頭では理解していたつもりだったが、ひょんなことから身を以て学んだ気がした。
あと全然関係ないけど、電車つながりで。
仕事終わりに席が空いていなくて立っていた時、ベビーカーに乗っていた幼女がそれはそれは綺麗に立ち上がっていた(途中で気付いたお母様に座らされていたが)。
立ちたいし自分の足で歩きたいお年頃なのだろうなと微笑ましく見ていたが、同時に、ベビーカーというちびっ子だけに許された優先席は利用できるうちに堪能した方がいい、なんて思ってしまった。
望み通り、立ったり自分の意思でどこかに行くことを許されるようになる頃には、彼女も例に漏れず、座りたいのに座れなくてしんどい思いをしたり、誰かに連れていってもらえる有り難みを知るのだろう。
わたしの電車事情と日々の気付きのキロクでした。
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