哲学をするとは
哲学とは小難しい専門的なことをいろいろ考えることではなく、日常に起こるいろいろな出来事について立ち止まって考えることだ。
日常にはいろんな疑問が付き物である。些細な疑問から、自分の人生の疑問までいろいろあるだろう。
たとえば、身近な誰かを亡くしたことがある人は多いだろう。あるいは、今は楽しく一緒に過ごせていても、いつかこの人を失ってしまうのではないかと考えることもあるだろう。そのような、悩んだところでどうしようもないのに悩まずにはいられないことはきっとあるはずだ。誰もがそういった悩みに取り憑かれ、考えても答えの出ないことを、それとわかりつつ考えてしまうはずだ。
そんな時に、哲学は答えを出してくれるのか、と訊かれれば、わからないとしか言えない。他の分野の学問のように、たとえば科学のように、質問すれば即座に答えを出してくれるということはない。というよりも、そのような問いに対して、他人から一般論の答えを出されたところで、納得できるだろうか。なぜ、あの人は死ななければならなかったのかと問うた時に、その人の死因についての説明を受けて納得できるのだろうか。それで納得できるのは、その人のことを客観的な対象としてしかみていない人だけだ。その人との熱を帯びた人間的な関係を持っていない人だけだ。
何かが、あるいは誰かが私と関係を持ち、少なからず私にとって重要な場合、その人やものは既に単なる科学的な対象ではない。言い換えれば、自分とは一切関係のない客観的な存在ではない。自分の持ち物を失くした時、それと同じものを買えば実用的には問題がない。使い切ったシャーペンの芯を交換する時、人は特に何も感じないだろう。交換することで、同じ役割を果たしてくれればいいからだ。つまり、その芯に対して、役割、機能以上のものを見出していない。言い換えれば、その芯の意味の全てはそれが芯として役に立つことにあって、役に立つ以上どんな芯でも構わない。つまり、芯同士に個体差を見出していない。しかし、これが長年使ったシャーペンの本体だったらどうだろうか。
「つまり」が連続して申し訳ないが、言いたいことがわかってもらえただろうか。私は私とは異なった人やものと関わっている。科学的な見方をすれば、それは単なる対象であり、なんらかの原子でできたものに過ぎない。その世界において、私と存在する者、存在者は相互に独立である。しかし、私が生きているということにおいては、私にとってそのような冷たい関係はほとんど意味を持たない。私が意味を見出すのは、科学的な見方では、他のものといくらでも交換可能な存在者であるが、しかし、私にとっては特別な存在者である。
そうであるとすれば、私が問うべきなのは、私と存在者との特別な関係である。その複雑な関係を、丁寧に地道に見ていかなくてはならない。私たちにはシャーペンの芯的な関係もあれば、シャーペン本体的な関係もある。これが人間同士の関係になれば一筋縄ではいかないだろう。ましてや、大事な人との関係になれば、その分、私とその人は分離できない関係にあるだろう。
このように問いに対して、安易に答えを出すことは、問いの本質的な解決にはならない。哲学は、その問いの前で立ち止まって、答えを出すことを躊躇するようなことが可能な営みである。人間である以上、過去の哲学者も同じことで悩んだ。その悩みを無視したり、放置したりせずに、なんとか言葉に表していこうとし、なんとかその悩みの正体を言い表そうとしたのが哲学の歴史である。哲学はその悩みを論理的に、つまり納得できる形にしている。芸術や文学とは異なり、論理という客観的な地盤の上に悩みや問いを築いていく。主観的あるいは実存的な悩み、問いをなんとか言語という、論理の領域へ、客観性の領域へ、形を与えていこうとする。
論理や客観性がなぜ重要なのか。客観的対象としての見方を批判した後に、なぜ主観的なものの表現方法に客観性を採用するのか。実存に関する問題は、「私にとって」が重要で、私さえ分かっていればいいのではないか。そういった批判がありうるだろう。そこで、私自身あまり詳しくないので、例に出すには不適切かもしれないが、「人間だもの」という言葉を取り上げてみる。この言葉のなんとなくのニュアンスはわかるが、少なくとも、この言葉だけでは、正確なことは伝わらない。人間であるということと、ニュアンスとして響いている諦念のようなものをどのようにして関連づけるのか。仮にこの言葉に感心したり、なにか的を射ているように感じるのならば、そのことを蔑ろにして良いはずがない、と私は思う。この手の名言や格言のような言葉はありふれていて、簡潔に人生の真理をついているとみなされることもあるのだが、実際その言葉の何に感銘を受けているのだろうか。言葉の簡潔さは、余白を残す。つまり、解釈の余地を残す。そのような言葉は受け手によって意味合いが変わるし、その言葉を使う方も、言葉に乗せる意味をその都度変えてしまいうる。
これは、言葉の方は変わらずにその形を保つが、その都度意味づけをする人間の感情や知性の方は人によって、あるいはその時々によって変わってしまうということを示す。すなわち、曖昧な言葉は、解釈を変動させ、その言葉が言い表そうとしていることを覆い隠してしまう。文学はここに想像力の多様性を楽しむのだが、哲学はあたう限りその輪郭を明瞭にするために、正確な言葉遣いをする。それは、客観的な言葉遣いによって、問題を自分から切り離し、対象化することで、自分から独立して存在させるためである。これは、解釈によるその都度の恣意的な意味変更を防ぐことでもあるし、それはすなわち、問題それ自体の存在を成立させることである。
悩みや問題が解決できない大きな理由は、その悩み、問題が何なのかが分かっていないことにあるという。人は課題が与えられれば、それに向けて行動できる。しかし、何をすれば良いのかわからない時に途方に暮れる。悩みや問題は主観的で、それ自体は私と区別できない。私は、それがもたらす苦悩から分離されない。私は取り外し可能なものとして悩みを持っているのではなく、私は悩んでいる私としてあるのだ。だが、その悩みを客観的な形にしてみたら、言葉を当てはめてみたら、その悩みは自分と区別された対象としても存在することになる。
渾然一体として、その都度私の解釈によって形を変える悩みは、対象として外化されることで初めて独立に存在し、すなわち、正体を現す。言葉にすることで悩みが軽くなったり、解決の糸口が見えるのはこういう理由があると思われる。したがって、客観的な形式、すなわち正確な言葉とは、悩みや問題をはっきりと認識し、それについて考えるために必要不可欠なのである。
長々と書いてはきたが、要するに、哲学とは、私が真剣に生きようとすると避けては通れないことについて、じっくりと考えながらなんとか論理的に言葉にしていこうという営みである。論理的な言葉であるとは、人に伝えられる言葉であると同時に、自分にとっても真に納得できる言葉であるということだと思う。なんとなくの言葉ではぼんやりとしたことしか伝わらないし、ぼんやりとした納得未満のものしか得られない。そのようなアバウトなもので人生を済ませてしまうことは、何か人生に対する真剣さが欠けているように思える。だから、哲学は本質的に難しい。しかし、その難しさの原因は、人生を真剣に生きることの困難さにあるのである。