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これからの教育って?

政治、経済、国際関係、技術の進歩等々、私達の生活を取り巻くありとあらゆる環境や状況が目まぐるしく変わっている今、唯一過去150年にわたりほぼ変化がないものが公教育であるとご存知ですか。

多くのことが時代と共に変化し続けているなか、ほとんど変化していない公教育体制がいかに時代に見合っていないかを知り、変革を起こさないといけないと、親である私達こそが気付き、危機感を持たないといけないのではないかとである私達は思っています。

公立小学校で行われている一斉一律授業は、子供達が同じ方向を向いて座り、教科書を開き、学習指導要領に沿って授業を行うことでいっぱいいっぱいの先生が黒板に書いた内容をノートに書き写し、先生の話しを聞いてるだけの情報一方通行であるのが現状です。

明治から始まったこの教育は西洋に追いつけ追い越せという時代背景のものと、合理化と生産性を重視し子供達本来の個性や自主性は置いてけぼりにされ

◆大人や先生の言うことに従い
◆みんなと同じことをやり
◆テストの点数が高い子

= できる子

であるということを良しとする社会を作ってしまいました。

昭和学校風景


そもそも、生まれも育ちも全く異なる私達の子ども達は同じ年齢でも、心身の発達、得意不得意、好きなこと嫌いなことももちろん違うのに、それを標準化してひとつの型に嵌め込もうする現代日本の教育の方が問題であると気付かないといけないのではないかと思うのです。

音楽が好きな子、ポケモンにやたら詳しい子、計算が得意な子、絵を描くのに夢中な子、作文が上手な子、走るのが速い子、読書が好きな子、お料理上手、虫博士・・・・などなど、本当にその子によって全く違いますよね。

実際、「普通の子」なんているわけがなく、皆それぞれ個性や違いがあるのに、こうした教育の刷り込みのおかげで私達は他と違うことは良くないことだと、「みんなと同じでなければならない」「大人の言う通りにしないと良い子ではない」、「良い点数を取って良い学校に行かないといけない」と思い込んでいるのです。

近代日本の時代背景を考えると、生産性を高め、マニュアル通りに行動できる必要はあったかもしれません。
しかし、令和になった今、そのような教育はこれからも本当に必要でしょうか。

昔は、知識人や一部の人達でないと知り得なかったことが、今ではインターネットで子供でもスマホやタブレットを使えば一瞬で多くの情報を得ることができるようになりました。
彼らが社会人になる頃には、シンギュラリティ(技術特異点)と呼ばれる更なる技術進展が想定される時代です。今や現代人の一日の情報量は、約100年前の人類の一日の情報量より数百倍多いと言われるほどです。
人間に代わる労働は最新技術によって補われ、現在の職業の多くが将来なくなっているとすら言われています。

このような時代に必要とされる教育は、もはや、大人に指示されたことをやり、暗記や既に決まっている答えを導き出すだけの問題を解くのみではなく、

自身の興味、関心を深め、創造し、無限に広がる自分の可能性を知り、多様な人々との関わり方を学び、人生を最大限に楽しみ、自分を取り巻くあらゆる問題をどう捉え、考え、解決し、それをどう実生活に生かすかが重要視されるべきなのではないでしょうか。

子供の頃から好奇心を追求、探究し学び続けることで、将来子ども達が大人になり、私達親元を離れ自立した時に、困難な問題や壁に突き当たったとしても強い心で、いつでも、どこでも、いかなる時も自分の力で考え解決する力を身に着け生き抜いて行けることができ、そのノウハウを子供時代に学ぶことができたらどんなに良いだろうかと思うのです。

どうですか、そんなふうに子ども達が学べる学校がいすみ市にあったら良いと思いませんか?



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