曦宗達日記(2020年5月)

二〇二〇年五月五日


落ち着かぬ。鍛える余地もない。学問は、努力とはこんなにも難しいのか!?

夢中になる程論文を読め

難しいことは考えさせないでくれ!一本の道を突き進ませてくれえええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!


バイトのこととか、プレゼンのこととか、批評執筆のこととか考えず論文購読させてくれ。


二〇二〇年五月十日


禅問答である。

全然切り替えができない。

正直言って辞めたい。けれど辞められない。

二〇二〇年五月十二日

芸術が好きで芸術作品が作れる芸術家になるために歌人と化する。

笹井宏之賞千葉雅也のために短歌を作り、今後も芸術によって自分を残す。←芸術は潤いだから。

知の追求。短歌と研究。

行動、生き方がコンテンツとなるなら、作家、批評家、学者としてもこの美貌を活用しないなんてもったいない。

二〇二〇年五月十四日

プレゼンテーションと倫理学?と鉄道と短歌(笹井宏之賞)。プレゼン大会で何か結果残すか評価もらう。

無音コンプレックスなのに誰とも喋りたがらない矛盾。


二〇二〇年五月十九日


カント曰く「みんなが真似しそうな作品を作れ」という範例性のオリジナリテを説く。AIの短歌も過去作品を取り入れて範例性的な短歌を作ったのだろうか。


一首の途中で切れたとしても二つの世界観が混ざっているのではなく大元は一つの世界観。切れの部分を切れずに一文としてつなげたとしても基本は一つの世界観としてつながるのだ。

二〇二〇年五月二十日


自ら作ろうとしてもわからんし戸惑ってばかりだから動けへん。だったら勉強とかやって文筆やら写真やらをアウトプットしていったらいつか光る。

好きなことができることにつながるかと言うとそうとは限らない。例えば鉄道オタクが皆ライターや鉄道研究ができるかとなると、文筆力等別の能力が問われる。だから、できることと好きなことは≠とは限らない。

二〇二〇年五月二十三日

不器用な自分に農作業、植物手入れ、竹切りに向くわけがない。

二〇二〇年五月二十五日


読書として読める短歌だが、これは頭のきりかえによるトレーニングが必要なのかもしれない。ただ、最近はスイッチをいろいろ変えれるようになってきたため、そんなに問題はないと思うが・・・。


現代アートで展示される作品は型破りなもの。型を破るには型を知る必要がある。つまりは過去作品の分析や影響は大きなものだろう。

絶対として文語から口語短歌にはつながりがある。

二〇二〇年五月二十七日


今日は成功したぞ。見知らぬ学芸員に声かけが!

ただ、今日は途中で短歌制作に没頭するあまり美術鑑賞に中々勢力が出なかったのが惜しかった。やっぱりメモ取りに集中して夜や落ち着いた時にまとめようか。

仏教の美と死生観、輪廻に通じる部分がある。

言葉を用いたアートには、心安らかでゆとり深く、落ち着いた芸術世界が見える。

美術家を目指したく、なおかつこうしたアートが現代アートとどう結びつくのかも研究してみたい。

あまり絵はうまくない方。造形は大きいものを試してみたことがない。

書道系のアートにはどんなこだわりがあるのか。

お寺はどこに?

独りは怖い。

メモ用紙アプリ溜まった短歌をプリントアウト化し、白紙にする。

美術批評:文脈を知り、経済学、社会学などの新たな視点から考察。


なぜ下の名前を答えてくれなかったのか?そこが大きな問題でもある。まあもしかしたら僕の声が聞き取りにくかったのかもしれないが、釈然とせずに進められても困ってしまう。誰も悪くない。電話に託そう。母はすぐ話を逸らしたのはなぜ?なぜ?僕は困っていたのに突き放したのだろうか。なんてことをしてしまったんだ。

一個一個の行動に行き過ぎが生じないようブレーキを掛ける。

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