100年前、日本人はそこにいた
2019年9月、僕はミクロネシア連邦の首都があるポンペイ島行きの飛行機の中にいた。
ミクロネシアといえば、スキューバダイバーの間ではチューク諸島が有名だ。
もちろんウェットスーツとダイビングマスクはスーツケースに入っていたが、目的はスキューバダイビングではない。
仕事だ。
実はミクロネシアは、日本企業にとっては知る人ぞ知るキャプティブ保険会社の設立地(ドミサイル)だ。
ミクロネシアで保険会社を設立と聞くと驚くかもしれないが、20社以上の日系保険子会社(キャプティブ保険会社)が運営されている。
僕の目的は、ミクロネシアでキャプティブ保険業界の現地視察と保険マネジャーのライセンスを受領することだった。
ホノルルからミクロネシアの首都があるポンペイまでは、飛行機で片道11時間。
距離的には日本ほど遠くないが、感覚的には日本へ行くよりはるかに遠い。
アイランドホッパーと呼ばれる飛行機で、途中の島々に寄り道しながら目的地を目指す。
各駅停車ならぬ各島停機だ。
途中泊まる空港では30分くらい飛行機を停めて、乗客や荷物の入れ替えをおこなう。
座席に座って待ってもいいし、いったん降りて待合室でまってもいい。
待合室といっても質素な作りで、おばちゃんがパイプ机でやっている出店で、飲み物やスパムむすびが買えるくらいだ。
マーシャル諸島のマジェロ、クワジャリン、ミクロネシアのコスラエの3島を経由してポンペイに着いた。
ミクロネシア連邦は、ハワイと同じポリネシア文化圏の島国だが、まだハワイのように観光地としては開発されていない。
生えている植物や、住民の容姿など、ハワイに近い感じがした。
きっと100年前くらいのハワイも、こんな感じだったんじゃないだろうか。
空港では、取引先の社員の方に花の首飾りで迎えてもらった。
ハワイではレイというが、ミクロネシアでは何というのだろう?
ポンペイ島がハワイの島と違うのは、島が環礁に囲まれているということだ。
環礁とは、島の周りのサンゴ礁が盛り上がって、輪っかの様な細長い浅瀬に囲まれていることだ。
ポンペイにはハワイの様な砂浜はないし、環礁内の波はいつも穏やかだ。
出張最終日の朝、一緒のホテルに滞在していた日本人の方と、ハイキングに行くことになった。
この人は軍事マニアで、軍服を見ただけでどこの国の何の部隊かまで言い当てられるぐらい詳しい。
僕はこの人を、心の中で『軍曹』と呼ぶことにした。
泊まっていたホテルから、小さな湾を挟んでソケーズという小さな半島が見える。
ソケーズには、ソケーズロックという小高い山がある。
今回の目的地は、ソケーズロックにあるという旧日本軍の対空砲跡だ。
朝5時半にロビーで軍曹と待ち合わせ、ソケーズロックを目指した。
ホテルの周りには、ブロック塀にトタン屋根を乗せただけの簡素な家が立ち並んでいる。
この辺りには他の島から移ってきた人たちが住んでいると軍曹が教えてくれた。
正直あまり治安がいいようには見えないが、すれ違う人たちはみんな笑顔で優しそうだ。
「グッドモーニング!」
ビリヤードのあるバーで夜通し遊んでいたお兄ちゃんが元気よく挨拶してくれた。
ミクロネシアは数年前まで道路が舗装されていなかったと聞いていたが、そんなことはない。
決して綺麗な舗装ではないけど、ロサンジェルスの穴だらけのフリーウェイよりはちゃんとしている。
ほぼ赤道直下のポンペイの朝は早い。
走り出して10分もすると明るくなってきた。
朝のさわやかな空気が心地よい。
ポンペイには高層ビルはない。
一番高くても4階建てくらいだろうか。
建物は鉄筋コンクリート造りが多いが、デザインは大味で全体的に古びている。
店も、おじさんが一人でやっているような個人商店ばかりだ。
たまにホテルの近くに突然オシャレなベーカリーが現れたりして面白い。
民家は質素な作りのものが多いが、デザインに統一感はない。
敷地の広さや素材の違いに貧富の差が感じられた。
前日のディナーの時に、ダイブマスターの現地人が、ミクロネシアの土地の大部分は酋長の家族が持っているという話をしていた。
有名なダイブスポットのアンツ環礁も、個人の所有物らしい。
現在も、各島の酋長とその一族が絶対的な権力を持っているのだろう。
外国人は法律上ミクロネシアで土地を買うことができないらしい。
ここがハワイとは違うところだ。
ハワイは外資がどんどん入って発展したが、その分現地人の住む場所は奪われてしまった。
ミクロネシアは同じ轍を踏まなかったということかもしれない。
軍曹とダイビングの話をしながら走ること約30分。
ソケーズロックの麓へたどり着いた。
舗装路を少し上ると、細い砂利道になった。
軽トラックがギリギリ通れるくらいの道幅だ。
傾斜は一気にきつくなった。
登山が趣味の軍曹は、僕より一回り年上だ。
急な砂利道をまったく苦にせずズンズン先に行ってしまう。
ハァハァ言いながらやっとの思いでついて行った。
山頂に近づくにしたがって、傾斜は増し、どんどん足場は悪くなっていった。
100年前、日本人がこの山道を物資を担いで登ったのか。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
旧日本軍の2基の対空砲は、山の頂上付近の平地の竹林の奥にひっそりと佇んでいた。
錆びてはいるが、100年前の大砲が、ほぼそのままの姿で残されていた。
軍曹が、「これは〇〇式の〇〇砲で、戦艦〇〇に搭載されていたものと同じ型だ」云々と解説してくれたが、ゼェハァ言いながらやっとの思いで辿り着いた僕の耳にはまったく入らなかった。
ポンペイ島は、日本から3,789㎞の距離にある小さな島だ。
この大砲は、100年の前日本人が太平洋の外れにあるこの小さな島で生活していたことを教えてくれる、歴史の遺産だ。
しばしこの2基の大砲を眺めながら、当時の日本人の生活に思いをはせた。
今のミクロネシア連邦の島々には、かつて8万5000人をこえる日本人が暮らしていた。
ポンペイ島にも、1万3000人をこえる日本人が暮らしていた。
太平洋戦争が終わってほとんどが帰国したが、現在もミクロネシアの人口の2割は日系ミクロネシア人だ。
100年も前に、こんな南の島で新しい生活を送っていた日本移民がいたんだ。
ご先祖様たちが残した遺跡を前に、当時の日本人のスケール大きさと気概を感じた。
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