wana be back 3.10. 戻りたい風景 vol 3
2011 3 末日
渋谷のアジトに画面に行方不明の息子を探す老夫婦の姿が映しだされている。
瓦礫の中、大きな声で息子の名前を叫んでいる。
声は風にかき消され、本来返事を返す者はいない。お父さんもういいよと母親が手を握った。
「創太郎、お前、現地行ってこいよ。。」
バーオーナーの達也さんが促してくれた。
ここで行かなければ嘘になる。アジトの物資を届けた先発隊。福島出身の友人の帰郷。二度も現地に行くきっかけを逃していた。
日に焼けた肌。帰国して数ヶ月。バックパックの中には南アフリカで友人から託された記者証がある。
ワールドカップを追いかけ半年の滞在
ジャーナリストになると10年続けたモデル業を廃業したものの
時間と混乱の東京とその社会が、今そこにあるだけ。
やはり南アフリカで出会った報道系カメラマン小玉さんが現地に行く事を知り
行動を共にさせてもらう事とした。
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小玉さんは九州宮崎に住む。地元大学の医学部学生、建設会社の社長
ボランティアの外国人2名などと自前で応援団を作り
一行は九州から東北を目指し北上、用賀インターで合流しさらに北を目指した。
現地では国境なき医師団と協力し瓦礫を撤去
その後、最も死者が出てしまった宮城県石巻市に向かい
復興のベースキャンプとなっていた湊小学校のキャンプに合流。音楽室に荷物を解いた。
翌日から倒壊した家々の荷物の運び出しなどを手伝わせてもらった。
汗を流し、まるで清酒かのように水を汲んでもらい飲み交わした。
大切なチェーンソーの刃を飛ばしてしまった。
夜になり、校庭のテントで一人受付仕事をしていると心細くなったが
やはり同世代のボランティアが大丈夫?と励ましに来てくれた。
学校の裏の墓地の墓石は倒れ、信号機も倒れ、
津波に流された車もそのままに
出来る事は全てやったが、
もっとも辛かった事は、被災された方々の話を聞き
励ますことが出来なかった点だ。その点において僕らはまだ若すぎた。
適度な相槌、会話の返し、汗を流し瓦礫を片付ける事は出来たが
言葉を送ることがひどく難しかった。
ゴールデンウイークが過ぎると学生達のボランティアが一気に減った。
被災地は特殊な環境である為、医師団からも7日以上の手伝いは勧めないと苦言を受け、それでも作業を続けたが二週間が経ち、最後は仲良くなった地元の方々にさとされ
石巻を後にする事とした。
持参した缶詰の食事や、ボランティアも摂ることが許されていた自衛隊の炊き出しでは次第に身体が動かなくなっていった。
「貴方は貴方の人生を生きなさい。5年後にまた、逢いに来て。5年あれば自分たちで元に戻すから。」と。
バスを乗り継ぎ仙台駅に到着すると
オフィス街を行き交う綺麗な格好をした人々がいる。
たった数十キロで世界は別世界だった。
東京に帰ると、やはりアジトの仲間が暖かく迎え入れてくれた。