通信不確実性、あるいは郵便的不安に関する雑記
広木大地の『エンジニアリング組織論への招待』は、組織をめぐる不確実性を3つに分類する。市場不確実性、目的不確実性、通信不確実性である。要するに、ただしくマーケットを把握できない、ただしく目的を置いているのか把握できない、そして、言葉がただしく届いているのか把握できない。この3つの不確実性に私たちは日々向き合っているということだ。
コミュニケーションを不確実な通信だと捉える広木の発想と私の考えは、非常に近い。そもそも、誰かに言葉や思いが正しく届くことなどあり得ない。ラカン派精神分析の知見に基けば、人は自分の伝えたいことを言葉にする力も、言葉を意図通り受け取る力も持ち合わせていない。だから、本当は「会話」は成立しておらず、身体信号の受発信を通じた相互理解が成立しているかのように見せかける、社会的な仕組みや儀式があるだけだ。私たちが仕事の中でコミュニケーションを一定の様式に限定しようとするのは、そうでもしないと通信不確実性をマネージできないからに他ならない。
だからといって、私たちは会話することをあきらめてしまって良いのかと問われれば、もちろんいけないに決まっている。言葉の世界に留まらなければ、人は思考し、表現する術を失う。己の言いたいことだけを朴訥に吐き捨てるような振る舞いは断じて許されない。私はあなたを理解しようとしているし、あなたも私を理解しようとしている。こういう前提のもとで、何度でも不確実な通信を交わし合うべきだ。
コミュニケーションは、決して理解できない自分と他人の「言いたいこと」を捉えようとして四苦八苦する過程そのものに宿っている。「言いたいこと」の前提にあるメタな「言いたいこと」は永久に広がっていて、その全容を捉えるのは不可能だ。人は決して、己の欲望の本当の形を掴めない。
けれど、自分や他人がコミュニケーションの中で「言いたいこと」からどれだけズレているのかを把握するためのヒントはたくさんある。「言いたいこと」から目を背け続ければ、それは必ず「症状」として顕在化するからだ。言語が「言いたいこと」と身体との間にズレをもたらすのは宿命だから、私たちはせめてそのズレを見出し、飼い慣らして上手く生き延びる知恵を見出だすことを考えよう。そして、日々「言いたいこと」の周りを衛星のようにぐるぐる回りながら、少しでもその中心に近づこうと試み続けるこそが、コミュニケーションの本質だと思う。
通信不確実性のことを、東浩紀という哲学者は郵便的不安と形容した。出した手紙は正しく届くかどうかわからない。間違った内容で届くこともあるし、間違った人に届くこともある。しかし、それこそがコミュニケーションの本懐なのだと思う。誤配される宿命にあるものを、受け取ろうとすること、届けようとすること。そして、その試みを、お互いがお互いのために、決して諦めないこと。
今日も、私たちは手紙を書く。向かい合って、対話しようとすることは、届く宛のない手紙を出すことに、本当によく似ている。