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なぜあなたは「不安定」なのか 対象関係のフラクチュエーション 

対象関係論という精神分析の一分野に、部分対象関係という用語がある。幼児は自分に対して「良い」振る舞いをする親と、「悪い」振る舞いをする親に、人格的な統一性を見出すことができない。ご飯を作ってお世話をしてくれるお母さんと、米粒をこぼしたら頬を叩いてくるお母さんという、相反する存在を合理的に認識する術を持たないのだ。そこで、赤ん坊はこの「良い」お母さんと「悪い」お母さんは分裂した別々の人格であると考えることにする。優しく微笑むお母さんと、怖い顔で自分を叩くお母さんは、全く別の人格に入れ替わっていると思うことで、この状況に合理的に対処しようと試みるのである。このように、矛盾する側面を見せる他者を分裂した存在とみなして、それぞれと別々の関係を結ぼうとする段階を、部分対象関係と呼ぶ。

部分対象関係にある人の認知において、自己と他者は癒合して同一化している状態にある。赤ん坊は自分と他者の区別がつかず、お母さんも自分の一部だと思っている。泣けば抱きかかえて食事を与えてくれるし、笑えば同じく笑顔を与えてくれる。何もかもを自分の思い通りにできる母という他者の存在は、帰納的推論を通じて、他者も世界も自分の思い通りにすることができるのだという原初的な全能感を与える。

しかし、しばらくすると母は自分を叩いたり叱ったりするようになる。ここで、幼児には原初的かつ最大の認知的不協和が生じる。それは、「この世界に自分の思い通りにはならない他者が存在するのかもしれない」「もしかしたらお母さんは自分の一部などではなく独立した人格を持つ他者なのかもしれない」という途轍もない不安である。幼児は、この不安に対処するために、まずは他者の人格の「良い」部分=自分と同一だとみなせている部分と、「悪い」部分=自分と同一だとみなせない部分を分離して、後者を激しく憎み排斥しようとする。母を殴ったり、罵ったり、泣き喚いたりすることで、「悪い」方の母を世界から消し去ろうと努力するのだ。

しかし、幼児はやがて「良い」母も「悪い」母も同一の人格であることに気がついてしまう。あの手この手で消し去ろうとしていた「悪い」母が、実は「良い」母と、同じ人間であったことがわかってしまうのだ。この時、幼児は他者を分裂した存在としてしか把握できていなかった部分対象関係の段階から、トータルで統合的な人格を持つ個人として知覚する全体対象関係へと移行する。ここで幼児には、人間の根源的な無意識である「罪悪感」が植え付けられる。別人だと思っていた「悪い」母に対して、暴力を振るったり罵ったりしてしまったことを顧みて、大きな不安に陥るのだ。そして、自分の抱いた「憎悪」という気持ちを他者も持っているのではないか?そして、自らもそれを向けられるのではないか?という不安に駆られるのだ。

「罪悪感」と「憎悪」の間を行ったり来たりしながら、部分対象関係はやがて、「良い」母も「悪い」母も同一の人物であることを受け入れ、思い通りにはならずとも安定した関係を築くことができるのだという自信を得ることで解消される。これを、対象恒常性の獲得という。

精神分析は概念的かつ神話的な枠組みなので、これは人間の心を解釈するための「おはなし」の類だと思っておけばよく、だから、納得できなくても話を聞いてほしい。ここまでは前置きだ。

なんらかの理由で部分対象関係を解消せずに成長した個人は、対象恒常性を獲得することに失敗する。わかりやすい例は、母から虐待やネグレクトを受けることで、安定的な関係に移行することができない場合だ。そこまで過激ではなくとも、要は「憎悪」と「罪悪感」のアウフヘーベンに失敗すると、他者に統合的で恒常的な人格が存在することを咀嚼できず、それゆえに、うまく人間関係を結べない個人が完成する。天秤が前者に傾けば、「良い」面を見せる他者を異常に褒めちぎったかと思えば、「悪い」面を見せる他者を悪辣に罵倒するという非常に不安定な個人が生まれ、後者に傾けば、常に他者を恐れて自分の内側に引きこもる閉ざされた個人が生まれるのである。

あなたは、他者と安定した関係を結ぶことに苦労していないだろうか?他者が見せる「矛盾」した側面をうまく咀嚼できずに、好意を寄せたりそれを憎悪を向けたりしてしまい、自分の感情に振り回されていないだろうか?あるいは、そんな自分の感情を閉ざして、内へ内へと引きこもってはいないだろうか?

僕自身のストーリーを披瀝しておこう。僕は、人が人を褒める光景に大きな恐怖を感じる。怖くて仕方がない。褒めフォビアである。誰かが絶賛されているのを見ると、手のひらを返して悪様に罵る様が同時に想起され、そのイメージに支配されてしまう。好意を寄せられそうになっても、そうなる前に関係自体を拒絶してしまう時がままある。それは、僕自身が、他者の人格に対して恒常性を見出すための安定した成長過程を経験し損ねているからなのだろう。

だからこそ、僕は常に、他者に「イメージ」や「バイアス」を当てはめて固定的な存在として捉えないように自らを戒めている。他者は矛盾した側面を孕み、自らの理解を超える存在であり、従って自分にとって「良い」面や「悪い」面だけをつまみ食いして関係を持つことはできない。あらゆる瞬間に真新しい表情を見出すことに戸惑いつつ、それら全てを他者の一部として認め続けることが、健全な関係を取り結ぶための第一歩なのだ。僕は他者を思い通りにはできないし、他者も僕を思い通りにはできない。母は、一度も僕の一部であったことはない。誰もが苦しみながらオリジナルな地獄を生きている。そう言い聞かせる日々である。

こんなことをわざわざ書くのは、今この社会は他者にトータルな人格を見出すことが困難な人で溢れかえっているように思われるからだ。ソーシャルメディアで繰り返される炎上。例えば応援していたアイドルの恋愛スキャンダル、投票していた政治家の突然の転向、ファンだった芸能人のゴシップ。あるいは、職場の人間関係、家族との距離。飲み会の肴程度に笑い飛ばすのであればまだしも、全身全霊でそれらに一喜一憂してしまう人が少なくないのは、僕たちが対象関係のフラクチュエーションを生きているからに他ならない。人間の最も根源的で原初的な欲望とは、他者を自分の一部であるかのように錯覚できる全能感を味わうことだが、その欲望と、実際には全く思い通りにはならない他者とのギャップこそが、他者の「良い」面と「悪い」面を分裂させ、片方しか認めないという部分対象関係への退行を生み出す。

それでも、思い通りにはならない他者の人格的な恒常性、つまり「良い」面を見せている時でも「悪い」面を持っていて、「悪い」面を見せている時でも「良い」面を持っており、そのどちらも間違いなく他者そのものであるという事実、を受け入れつつ、なんとか関係をとり結ばなければいけない人間とは、なんと苦しい生き物であろう。結局、健全な関係を結ぶには、他者が「他者」であるということを認め、それでも突き放したり閉じこもったりせず、互いを受け止め合うしかないのだろう。



のび太は対象恒常性を獲得しています

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