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同時代を生きた演奏家で聴くドヴォジャーク(2)モード・パウエル
私がモード・パウエルというヴァイオリニストの名を知ったのは意外にも早く、高校2年生の時でした。教室の発表会でヴァイオリンとデュオを披露する機会があり、そこで選曲したのがドヴォジャークのロマンティックな小品第1曲と「我が母の教え給いし歌」(ジプシーの歌第4曲)。後者は原曲が歌曲なので、ヴァイオリン版をIMSLPで探し、たまたま見つけて使用した楽譜が彼女の編曲だったという訳です。
ただ、その時はパウエルという人について詳しく調べることもなく、女性だということにさえ気が付いていませんでした。ヒストリカル録音に興味を持ち始めたごく最近、彼女がアメリカ時代のドヴォジャークと接点があったことを知ったのです。
元祖・女流ヴァイオリニスト!
♫ E.エルガー作曲 愛の挨拶 (1913年、伴奏G.ファルケンシュタイン)
モード・パウエルは1867年アメリカ合衆国のイリノイ州に生まれ、13歳で渡欧。ヨーゼフ・ヨアヒムの元で研鑚を積み、18歳でニューヨーク・デビューを果たすと瞬く間に世界中で高い評価を得ました。クラシック界がまだ欧州優勢だった時代に、女流として、そして米国においても優れた音楽家が生まれ育つことを立証したことは彼女の功績として語り継がれています。小品を中心に多くの録音も残し、NaxosからCD4枚分が復刻されています。
パウエルはインタビューで、女性ヴァイオリニストには当時強い偏見があったとした上で、自らの信念を次のように語っています。
「性別が逆風になっていることに気付いたせいでもあるのでしょうか、私の初めの頃の演奏は男っぽいもので、びっくりするぐらい堂々としていました。しかし女性ヴァイオリニストはこの間違いを犯してはなりません。批評家のジェームズ•ハネカーには『演奏に女性的な面が反映されていない』と書かれました。このとき決意したんです。私は自分自身であろう、魂が私を動かすままに演奏しよう、所詮芸術において性別など二義的なものだからもう考えないようにしよう、と。」
ヴァイオリン協奏曲のニューヨーク初演で作曲者を驚嘆させたパウエル
そんなパウエルと関わりが深い作品が、ドヴォジャークが作曲した唯一のヴァイオリン協奏曲、イ短調Op.53 B.108。
ここでしばし脱線・・・この協奏曲には作曲から初演までの過程に紆余曲折がありました。パウエルの師ヨアヒムが深く関わっているので、ここで簡単に触れることとします。
ヴァイオリンとヴィオラは、ドヴォジャークが幼いころから弾きなれた楽器でした。1879年秋、ドヴォルジャークはシフロフにあった友人アロイス・ゲーブルの邸にこもって、ヴァイオリン協奏曲をほぼ完成。11月の末にそれをヨアヒムに送り、彼がその主宰する四重奏団とともに自分の室内楽曲をたびたび演奏してくれたことへの感謝のしるしとして献呈しました。
ジムロックにあてた1880年5月9日付の手紙によると、「ヨアヒム氏の要請により、私は協奏曲を一小節も残さずすっかり書き直しました。今度は間違いなく満足してもらえるでしょう。この仕事には全力を注ぎました。ですから、この協奏曲全体が今や別の顔を持つことになると思います。 主題は変えず、そのうえ、いくつか新たに書き加えました。けれども、作品全体の構想はまったく違うのです。つまり、和声づけ、オーケストレーション、リズム、展開などを一新したのです。」とあり、第一稿は実質上その跡をまったくとどめていないことになります。 ドヴォジャークはその新しい協奏曲をヨアヒムに送りましたが、ヨアヒムは当惑して、2年のあいだそれを手許にとどめておきました。
1882年8月14日になって初めて、彼はこの曲について、「・・・全体を見ますと、ヴァイオリンに精通した音楽家の作品であることを示しています。しかし、細部について見てみますと、あなたは大分前からヴァイオリンを弾いていらっしゃらないのではないかと思われます・・・」と伝えています。ヨアヒムは鄭重で、作品の美しさを称え、喜んで演奏しようとまでいったものの、また「このままでは不充分で発表することはできません」とつけ加えざるを得ませんでした。ピアノ協奏曲についても指摘されたことだが、ヨアヒムには、管弦楽の伴奏に比重がかかりすぎていることが不満だったのです。 「お差支えなければ9月の半ばごろ当地へお出で下さい。 実習高等音楽学校 〔注〕のオーケストラを使って、10月初めには試演できるものと思います。」
ことはそのとおりに運ばれ、協奏曲はヨアヒムの助言にしたがって手直しされました。ドヴォジャークは、この有名なヴァイオリニストの厳格さを恨みに思うこともなく、「悶着」にようやくけりがつくのを喜んで、オーケストレーションのために二年ものあいだ作品を預ってくれた「親切な」ヨアヒムに感謝しました。 しかし結局、このヴァイオリン協奏曲は、献呈を受けたヨアヒムではなく、ドヴォジャークの友人であったチェコのヴァイオリニスト、フランティシェク・オンドルジーチェクによって1883年10月14日にプラハで初演されました。
ちなみに、ヨアヒムは、シューマンのヴァイオリン協奏曲にも同じようにきびしい評価をくだし、その発表に反対しています。
〔注〕ヨアヒムは同校の校長であった。
さて、本題のパウエルに戻りましょう。世界初演から10年後の1893年、ヨアヒムの弟子でもあるパウエルはこの協奏曲のニューヨーク初演で独奏を務めました。本番前、彼女は作曲家を前に演奏を披露する機会がありました。その際のエピソードを見つけたのでご紹介します。
ナショナル音楽院の創立者ジャネット・サーバーから院長就任の要請を受け、1892年9月にアメリカに到着したドヴォジャーク。パウエルがニューヨーク初演に先立って作曲者本人と会ったのはその年の11月のこと。彼は、協奏曲の被献呈者であるヨアヒムがこの作品について、「女性が弾くには難しすぎる」と言っていたことを伝えた。そんな忠告にも挫けずパウエルが弾いて見せると、彼は歓喜のあまり立ち上がり、「私の協奏曲を完璧に弾ける女性を見つけたと今すぐにでもヨアヒムに書き送らなきゃね。」と申し出た。
ヨアヒムの女性奏者に対する偏見・軽視も窺われると共に、弟子パウエルの力量の程を示す逸話ですね。実際、パウエルはヨアヒムの指導には共鳴していなかったようで、「ヨアヒムは教師というよりヴァイオリニストとして偉大な人でした。彼の教育方法は束縛のようなもので、学生をみんな同じ型にはめ込もうとするのです。学生はヨアヒムという名のろくろの上で次々に回されるといった感じです。」と後に語っています。
パウエルは翌年1894年4月には作曲者臨席の元、アントン・ザイドル(前年には新世界交響曲を初演)指揮ニューヨーク・フィルと同曲を演奏しました。ドヴォジャークは楽屋に行き、その彼女の美しい演奏に感謝の念を伝えたそうです。
パウエルが残したドヴォジャーク録音
そんなパウエルが演奏するドヴォジャーク、聴いてみたくありませんか!?
残念ながら協奏曲の録音はありませんが、ドヴォジャークの誰もが知る名曲ユーモレスクを録音しています。アメリカで育った彼女らしいチョイスですよね。ポルタメントを駆使し、絶妙なアゴーギクで愉悦に満ちた音楽を聴かせています。
♫ A.ドヴォジャーク作曲 ユーモレスク第7番 (1916年、伴奏A.レッサー)
おまけ
ヨアヒムに代わってヴァイオリン協奏曲の世界初演を行ったフランティシェク・オンドルジーチェク(1857-1922)の録音【ラフのカヴァティーナとバッハのG線上のアリア(共に1912年)】がネット上で聴けます。
今回紹介したヴァイオリン協奏曲(全曲)の個人的オススメ演奏はこちら↓
ヴァーシャ・プシホダ(独奏)、パウル・ファン・ケンペン(指揮)ベルリン国立室内管弦楽団[1943年録音]https://youtu.be/CDeevfbmXjk
この曲の内容については、門倉一朗氏の解説がその本質を的確に捉えているので一部引用させて頂きます。(鑑賞のご参考まで!)
「旋律の資源はきわめてゆたかで、ときにはまったく霊感のおもむくままに書き綴った感があるが、それでいてなおたんなる情緒主義に陥ることなく感動的な力強さを保っているのは、ボヘミアの民俗音楽が深く浸透しているからであろう。郷土の民謡や舞曲を素材にしながらも、けっしてそれらをなまのままで用いることなく、その本質的な特徴を交響的な織物のなかにたくみに織りこむことによって、芸術的に浄化高揚せしめている。スラヴ舞曲のリズムが駆使されているほか、ボヘミア民謡の基本的タイプもみいだされる。民族的色彩と古典的構成を兼備し・・・この作品の構成法、たとえば主題の細部にわたる展開処理とその変容は、まったく有機的であると同時に、きわめて自由なファンタジーにあふれている。」(音楽之友社「最新名曲解説全集」)
出典
ギー・エリスマン「ドヴォルジャーク」音楽之友社
「ヴァイオリン・マスタリー 名演奏家24人のメッセージ」全音楽譜出版社