協力することで悩んだ日
僕は保育士やボランティア会の会長として様々な取り組みを行っている。
その中で物事を進める上で必要なのは協力することだ。
自分一人で出来る事には限界もあるし、体力も心ももたない。
だから人は協力する。
だが、協力という言葉には大いなる期待が含まれている。
「協力したい」→助けてほしい。
「協力したのに」→自分の望んだ結果ではなかった
協力という言葉には使い方によって様々な期待表現になる。
期待とは落ち込む原因になる一方で行動する活力の源でもある。
僕もとある取り組みを行う中で、「協力しよう!」と大勢に発信していた。
相手の状況と自分の状況を整理し、実現可能な方法や周知しやすい方法を考え実行してきた。
結果として、うまく周知ができないことやその都度の状況変化によって想定していた方法とは違う方法が求められることが多くあった。
だが、それはマイナスな結果ではなく、プラスへ向かうために必要なことだと僕は思っている。
たが、協力している以上この問題に関わっているのは僕だけではない。
この失敗を重く受け止めすぎて、次に進めなくなる人。考えることをやめてしまう人。
何があったのか理解していない人。
行った問題に対するリアクションは人それぞれだ。
マイナスな思考の中には前提に期待があったのだと思う。
だから落ち込むし、次への活力が減ってしまう。
僕は、悩んだ。
自分は次に進みたいけど、周りの多くがそうではない。
とりあえず今の目の前がどうにかなればそれでいいかのように僕は感じてしまった。
目の前しか見えていないのだろうか。と。
でも、そうではない。
他と目の前しか見えていなくても、目の前は見えているのだ。
だったら目の前から変えていこうと僕は思った。
僕の思う事を実現させるのが協力する事ではない。
みんなでいつの目的に向かって働く、行動する事が強力なのだ。
僕はそのことに気づくまで時間がかかった。
つまりは僕も目の前しか見えていなかったのだ。
最後に
「協力する」言葉では簡単だが、実行するのは大変だ。
自分の考えを持ちながら、他者の考えも尊重する。
一度悩むとなかなか抜け出せない悩みだが、「何のための協力なのか」
と考える場所を変えるることで僕は冷静に考えることができた。
保育の場面なら子どものため、ボランティアの場面なら対象者のため。
協力する事はあくまでも手段であり、目的ではない。
僕の目的は対象の人に心地良いサービスを提供する事だ。
その考えだけはチームの考えとして統一しておきたい。
伝えるポイントを絞ろう。丁寧に伝えよう。
所詮は僕も目の前しか見えない人間なのだから。
きっとうまく行く。同じ人間なのだから。
期待しよう。落ち込みすぎない程度には。それが僕の活力の源だから。