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「君は、なかなか観る眼があるね。」これは会社の上司なんかが「こいつ使えるかも?」って時に言う台詞ですね。あると表現するには、その逆もあって「観る眼がない」は、「見込みがない」ってこと。同じ観るにしても違いがあるんです。日本語は、おもしろくって「眼」と書くと「目」より上等そうだし、「見る」も「観る」と書いたらよく観察している気がする。見ることもいろいろと幅があります。「ぱっと観る」「さらっと観る」「じっくり観る」それぞれで、見えるものが違うはずです。「目ざとい人」は、細かなところも見逃さずに見つけるし、それこそ「目利き」は、観ることから価値を見出す人達です。このような観る眼を持つには根拠が必要で、美味しい料理がつくれる人は、美味しい味を知っている人であるように、良いものを見出し理解する眼は、ちゃんと良いものを観てきた眼なのです。
同じものを観ても、人それぞれに反応が違うのは、どうしてなのでしょう。それは今までに見てきたものが違うからです。その人の育った環境が「ものの見方」に強く影響します。例えば、日本では虹は七色ですが、文化が違えば、五色になるのです。中間の色に名前がない文化があるんです。名前がなければ、整理整頓ができないので、当然のように情報処理できず、見えなくなります。光をとらえる器官が眼で、その情報を処理しているのが脳です。眼でとらえていても、脳で観ていないことは、多々あります。「見逃す」ってことです。見慣れているから見逃したり、観たことがないから見逃したり、見えることより見逃すことの方が多いと思います。
また観ることや知ることには、文化背景に由来するバイアスが、知らず知らずにかかっています。このバイアスを私は「文化のメガネ」と捉えています。ですから何かをちゃんと観るためには、まずメガネ越しでしか観られないことを意識することから始めなければなりません。なぜなら、このメガネは、たまに曇るからです。この時にメガネをかけていることに気づいていなければ、世界が曇っていると勘違いしてしまいます。そこのところをちゃんと解っていると、曇りをふき取ることができるのです。ところで、この文化メガネは、外さなければならないものでしょうか。そうではありません。というか、そう簡単には外せないのが文化のメガネです。だから、外すことより、まず、その種類(色やデザイン、近眼用なのか乱視用なのかとかね)を知る努力をしましょう。そして他の人のメガネと較べてみるのです。必ず違いが見つけられるはずです。その差を、どちらが正しいとか、良いとか判断するのではなく。差を意識してから、はじめて自分自身の「観る眼」がわかりだすのです。
(トリ・スクール テキストより)
注:トリ・スクールとは、店主岡山が主催していた現代美術の鑑賞術を学べる学校です。関西のカフェで美術史に沿った12のテーマを月一、一年かけて教えていました。