死者たちへのレクイエム ~映画『善き人のためのソナタ』〜
『善き人のためのソナタ』2006年 ドイツ
監督)フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
出演)ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ゲデック、セバスチャン・コッホ
あらすじ)1984年、ベルリンの壁崩壊前の東ベルリン。
シュタージ(国家保安省)のヴィースラー大尉は、劇作家ドライマンが反体制である証拠をつかむよう命ぜられる。しかし、盗聴器から聞こえてきたのは、ドライマンとその恋人である女優クリスタとの語らい、愛の生活、そしてドライマンの奏でるピアノの調べ。
ビィスラーの心は、恩寵のような音楽の響きに、思いがけず揺り動かされるのだった。
黒とも白ともつかぬドライマンだったが、脚本家イェルスカの死をきっかけにある行動を起こす。東ドイツに波紋が広がる中、ヴィースラーはドライマン逮捕に向けて任務を遂行しなければならない立場にいた。…
閉ざされた統制国家の中で、監視され苦悩する芸術家たちの魂の叫びと、監視する側の心に目覚めた人間愛が静かに描かれる。ベルリンの壁崩壊から17年の歳月を経て、初めてシュタージの実態が扱われた作品。
死者たちへのレクイエム
2007年アカデミー外国語映画賞受賞作。映像も音楽も素晴らしくて、こんな映画をドイツが作ったのかと驚きました。その驚きこそ、映画に描かれているようなドイツの変革がもたらしたものでしょう。
ベルリンの壁崩壊前の東ドイツの話というと、自分の日常から遠く離れた世界のようですが、作中の人物たちに容易に感情移入でき、同じ人間として彼らの苦しみが理解できました。体制に翻弄される男女の愛の行方には泣いてしまいましたが、予想外のラストには胸がじんわり温まり、とてもいい映画でした。
こういう作品を観ると、映画にしか表しえないものがあると感じます。史実に基づく話だからこそのリアリティが、深い感動をもたらします。138分の中に男と女の愛があり、芸術家たちの苦悩があり、政治家の欲望があり、党への忠誠と良心の狭間で揺れる人間がいる。非常に限られた空間が描かれているようで、劇的な時代の変遷と、そこに生き死にする人々の姿が心に焼きつけられるように描かれています。それから、魂をゆさぶるピアノの深い音色。
サウンドも含めて、劇場で鑑賞しとけばよかったとつぐつぐ思います。
東ドイツのシュタージ(国家保安省)については、名前さえ私は知りませんでした。簡単に物語の状況を説明すると、時代はホーネッカー書記長の独裁体制が続いている頃で、反政府的だとされた作家や芸術家はシュタージの監視下に置かれ、投獄されたり、職業権を剥奪されたりします。演劇界でも、大臣など政治家の権力で監督や演出家、キャストを決めることができます。成功したいなら、西寄りの思想を口に出したりせず、体制に迎合しなければならない。もともとが芸術家というのは高潔で、自分の信念に従ってしか生きられないところがあるので、それは苦しいことだったと思います。
盗聴や、長時間にわたる尋問シーン、体制に反抗したとされた者たちがたどる末路を観ていると、つくづく現代の日本に生まれたわが身の幸運を思いました。いや、本当に怖い世界。
その暗く、殺伐とした体制国家の中で、劇作家ドライマンと女優クリスタの姿は輝くばかりの存在です。若くはない二人ですが、溜息が出るような美しいカップル。その二人の生活を盗聴していたヴィスラーの心が、だんだん変わってゆくのも分かるような気がします。
ベルリンの壁が崩壊したのが1989年。映画の中では、壁崩壊後の状況まで描かれます。
崩壊時、私は小学校6年生だったでしょうか、子供ながらに「これは歴史に残るすごい出来事なんだ」と思った記憶があります。今年、アメリカに初の黒人大統領が就任した時と同じくらい、驚きと期待をもってTVを観ていました。
しかし、どんな記憶も時が経てば薄れてゆくもの。今の私にとって「ベルリンの壁」は日常ほとんど意識されないテーマであり、ドイツの若い人たちにも壁の存在自体よく知らない人も増えているそうです。先日TVで、ドイツの学生が「壁? 東西が分断されていた? なんだって、そんな馬鹿げたことをしていたんだい?」と話している姿が流れていました。
本当に、時代が変わったのですね。
私はこの映画を、友人のY子さんからのススメで観たのですが、沢山の人に観てほしいと思わずにはいられません。それはまた、映画制作者たちの願いでもあると思います。月並みな表現ですが、あの時代のことを忘れてはいけないと。あの時代に生きて闘った人たちのことを。
この映画は、統制国家の中で絶望して死んでいった人たちへのレクイエムでもあるといえそうです。
決して明るい映画ではありませんが、救いのある後味のよい映画。行き詰まりを感じた時、視点を変えて自分の生活を眺めるにもよいきっかけとなるかもしれません。
-2009年10月 DVDにて初鑑賞-
(この記事は、SOSIANRAY HPに掲載した記事の再掲載です)