高野山の町石参詣道をぽれぽれ歩く
高野山への主な参詣道7つ(高野七口)の中で弘法大師空海が切り開いたとされている「町石道(ちょういしみち)」を歩いてきました。
九度山町の慈尊院から高野山まで一町(又は一丁、約109m)ごとに木製の卒塔婆(そとば・ストゥーパ=仏塔)が道標として立ち、古くから僧侶、庶民だけでなく、皇族、貴族、武士などあらゆる階級層が歩いた町石参詣道。
平安時代に作られた木製の塔は朽ち果てたため、鎌倉時代に寄付を募って石造りの五輪塔形の町石が約20年かけて配置され、根本大塔を基点として大門・慈尊院への西北に180基、金剛峯寺・奥の院御廟への東に36基、合計216基の町石が並びます。
町石道を歩く多くのハイカーは麓の九度山駅から高野山へ向けて登りますが、今回私は極楽橋から京大坂道の不動坂といろは坂を登って高野山に入山し、女人堂から弁天岳経由で高野山の西の正門・大門へ下りたので、町石道を高野山から麓の慈尊院に向けて下山することにしました。
大門から町石道に入り、まず目に飛び込んで来たのが杖たて入れと山道に置かれた多くの枝木です。
参詣者、ハイカーが杖代わりに最後の急坂を登った痕跡を見て、平安時代から約1200年歩き継がれてきたこの古道は ”歴史ロマンに触れる” みたいな抽象的キャッチコピーでは言い表せられぬほど多くの人の想いや物語が詰まった「歴史の重みを感じる道」だと思いました。
約20㎞ある町石道は全体を通してよく整備されており、祈りが込められた町石が次々に現れ、空海にまつわる岩なども点在しているので風景に飽きたり、歩き疲れを感じたりすることなくどんどん歩けます(今回は下りということもありますが)。
中でも山道沿いに巨杉が並ぶ20町石から60町石(標高800m~500m)は森林浴気分(=森林セラピー)に浸れる素晴らしい森が続き癒されます。
60町石がある矢立では、空海の教えを受けて作られたという花折名物やきもちで小休憩。体に良い小豆とヨモギが使われ、日持ちを良くする為に炭火で焼かれた素朴な味でした。
季節によって咲く花や見える風景も異なりますが、今回は八十九町石の周辺で見頃を迎えた山茱萸(サンシュユ、和名は春黄金花 ハルコガネバナ)の美しい林に目が留まり、しばし足も止めて観賞と称してまた小休止。
そこからゴルフ場沿いの道をさらに進むと、いかにもパワースポット!みたいな垂迹岩(すいじゃくいわ)と鳥居が。
鳥居脇の案内板に書かれている丹生都比売神社の御利益に関する言い伝えを読んでしまうと、どうしても神社に寄り道したくなり、この先をしばらく歩いた場所に建つ二ツ鳥居手前から道を逸れ・・・
天野の集落へ。ほどなくして神様がお渡りになる朱塗りの輪橋が見え、神さまのおかげをいただけるようにと参拝者も渡れる橋を渡り、鳥居前で一礼。
町石参詣道からはだいぶ遠ざかったものの、丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は弘法大師に高野山の土地を授けた女神・丹生都比売大神を祀る総本山で、紀伊國一之宮である由緒ある神社、とのこと。
また、古くは高野山参りに先立って参拝する習わしがあった、の記述を見て、私は順番が逆だったと気付きましたが、今回はお礼参りとして立ち寄ったことにして、ここまでお力添えをいただいたことに感謝しました。
神社から町石道に戻り、六本杉峠から紀ノ川が見える展望台とその先の舗装路は自然と駆け足になるほどの下り坂が続き、思いのほか速く目的地・慈尊院の多宝塔と土壁が見えてきました。
この寺は昔、高野山への宿所、冬期避寒修行の場であったと共に、女人高野信仰で知られる古刹で、空海の母・玉依御前が香川善通寺から参られた際、弘法大師が月に9回麓に下りてこられた(九度山の由来になった)ことから、御母公との結縁寺としても知られています。
現在、母の介護をする自分が偶然こうして慈尊院を訪れたのはとても意味深く思えましたし、慈尊院を訪れた弘法大師の孝行心を少しでも見習いたい、と自分の内にある反省点の多くと向き合うことができました。
今回、京大坂道不動坂と町石道を合わせて約30㎞の道のりを歩き、高野山は今でも多くの人にとって信仰や祈りの場所であり、遠く離れた地に住む人にとっても心の拠り所であることを感じた山旅でした。
また、歩く距離と時間が増えるにつれ、先人の想いを受け継ぎ古道を守ってこられた方々のお陰で現存する参詣道を歩かせていただけている「今この瞬間への感謝」も増していくことを実感した貴重な場所と時間でした。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。