twitterアーカイブ+:映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想:異性という陥穽

映画一回目

「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を観てきた。形式はサブリミナルめいて執拗に無意識に干渉しようとする見事な新房シャフトであり、内容はゼロ年代に頻出した結論で非常に分かりやすい。原作のドラマを私は観ていないが、原作よりも分かりやすくなっているのではないかと思う。

 原作ではなかったらしい、駅で捕まる以降のパートが、まさにゼロ年代に(恐らく、主に泣きゲーとセカイ系において)模索された「あらゆる可能性があり得るが、個人は結局一つを選ばざるを得ない」「選ばれた一つを、“心の持ちよう”によって受け入れる」という主題を与えている。

『キャラの思考法』(さやわか)[1]収録「打ち上げ花火を、今なお、どう見るべきか」(二〇一二年)に、「時間を過去へと遡行することができてさえも、空間的には少しも動くことができない」「ゼロ年代以降にはこれが『日常を受け入れる』というテーマ性に置き換えられて理解されていった」とある。

 ここで述べられている事に、今回の映画は忠実に沿っているように思える。今回の映画の結末は、「AIR」や『イリヤの空、UFOの夏』のそれと大差はない。だがこれはあくまでオタク・カルチャー・コンテクストがあって理解できる系譜である。私の後ろの方にいた客の反応がそれを物語っている。

「撮影技術や3DCGの発展によって、昨今のアニメは実写でしか実現できなかった岩井のラストシーンを我が物にし、アニメの側から更新しようとしているのかもしれない」(さやわか)――これは、私は原作を知らないので何とも言えないが、まあこの論考で指摘しているような効果は発揮していると思う。

 もう少し細部について言えば、とにかくなずなの話し方が思春期の少年を殺しに来ている。これは本当に凄まじい。舞台は全くAIRめいた「田舎の夏」であり、そこに配置すされる「『すこし・ふしぎ』な美少女」としてこれ以上のものはない。ノスタルジー装置としての田舎の夏の完成形だと思う。

「田舎の夏」というガジェットに共鳴できない世代であっても、このなずなの話し方や挙措だけでも刺さって死ぬのではないか。女子の方が体格が良い年頃の、同級生の女子というものの持つ「絶対に思い通りにできなさそうな感じ」「だからこそ、沼と分かっていて追いかけずにはいられない感じ」。

 私はしばしば、思春期の少年から見た同級生の女の子について「世界に、人の形をした穴が開いている」「この女の子を突き抜けた向こう側に、帰るべき場所がある」という表現を使うが、この感覚を極めて的確に描いてきたのは児童文学作家の山中恒なのだ。『ぼくがぼくであること』の谷村夏代を見よ。

「君の名は。」はキレイな映画だったが、「打ち上げ花火」は全くキレイではない。前者は大人が記号的な感傷で楽しむ事ができるが、後者は思春期の少年の粗野さ、愚かしさ、未だ欲望の形をとらぬ欲望がかなりの解像度で描写されている。私には女性がこの映画をどう評するのかまるで分からない。

 映画のパンフレット掲載のインタビューで新房が「それこそ何度も繰り返して、永遠に続いていく感じになったら面白いですよね」と軽く語っているが……そういうところだよ…………


 援交ビッチと歳の差モノ(男が成人のもの)はコミック高に載せずに全てsasecoに隔離してくれ……。Juicy亡き今、エロスやらシコやらから離れて、「同級生の女子が気になるということ」の葛藤とその解決の形を提供する雑誌が必要なのだ。「打ち上げ花火」を観て、改めて強くそう思う。

「小悪魔系」という言葉が成人女性にまで使われ、ほとんどビッチの同義語と化してしまった今、ナボコフ以来の「ニンフェット」という語を復権させる必要があるのだ。性的記号に毒された大人から見た「シコ」ではなく、不安定な子供同士の間にたゆたう「いけなさ」にもっと目を向けるべきではないか。

映画二回目

「打ち上げ花火」を観てきた(二回目)。やはり最初のプールサイドのシーンで脳が焼けてしまう。「選ばれた可能性と選ばれなかった可能性」「男子中学生から見た同級生の女子はヤバい」という二本の柱さえ掴んでしまえばそれに沿って様々な技巧や思想が見えてくるが、そのためのハードルが高い。

 ファンタジー要素のない現実の風景に見えて、実はイメージの世界の風景(夢の中のように、因果よりも連想と象徴で結びついた風景)がそこに貫入してきているのだということが読み取れなければ、電車に乗ったあたりから脱落するしかないし、それができたとしても最後の世界を見て困惑しかねない。

 他ならぬ我々の現実がただのイメージと選択でできているという思想にどこまで馴染んでいるかを確かめる試金石にはなるわけだが、それとは別に「ここで描かれているイメージ」を受け入れられるかという分岐もある。なずなにどの程度まで男子中学生フィルターがかかっているのか、私には分からないのだ。


「打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか?」のBDを予約した後にAmazonのレビューを見てみたが、まあこうなるだろうな。肯定的な意見として「物語には定型があるという思い込みが作品の理解を妨げる」というものがあり、それは正しいが、「打ち上げ花火」もまた一つの強力な定型の内にある。

「典道となずなの声優が下手」という意見が多く見られるが、典道の演技は男子中学生のどうしようもない愚かしさの表現として完璧であり、なずなの演技は男子中学生から見た同年代女子のどうしようもないどうしようもなさの表現として完璧なのだ。

小説

 小説版『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を読んだ。映像屋が書いた小説が駄作揃いなのは分かっていたことだが、最後の場面は映画と反する解釈なのではないか? 「“もしも”なんて無い“たった一つの世界”」を肯定する解釈は映画ともパンフレットとも筋が通らんぞ。

 映画を一旦忘れて、改変し続けた一日を「典道となずなが互いに素直に思いを伝えるためにあったもの」と解釈するのなら一応の筋は通るが、そうだとすればより一層の駄作だ。(一応言っておくが、操刷法師はドラマ版を観ておらず、映画は大傑作だったので二度観た。)

その後

 操刷法師によれば、映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』のハイライトは、なずなの「キャバクラ? ガールズバー?」という二言が発せられる五秒間であるという。あの五秒間に、中学生男子から見た中学生女子のヤバさと、それが社会に巻き取られていくことへの絶望が満ちている。


「秒速5センチメートル」「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」「ペンギン・ハイウェイ」は、男性の少年期の心象風景を描いたものとして相互に補完的で、全体として一つの同じ結論を描き出している。とりあえず私は秒5について、ニューヨーカーGOTO(知己)の妹君の所見を直接伺いたい。


 映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』において、「瑠璃色の地球」が歌われるのは全く不自然なことではない。中学生の男子、特に典道のようにミステリアスな美少女に惹かれた者にとって、同年代の女子とは地球と同じかそれ以上の重さと大きさを持っているからだ。

『ペンギン・ハイウェイ』におけるお姉さんがアオヤマ君のアニマであること、従って未知なる世界そのものの象徴であることは論を俟たない。そのような相手が擬人化されて現前するとき、オタク評論にいう「中間項」のようなものはそもそも介在する余地がない。

 中間項の消去、あるいは個人と最大項との直結という構造自体は、現代に始まったものではない。それが民話の構造であることを以前に指摘した。しかし、その最大項が「世界」であることは近代合理主義の産物であり、最大項の象徴が美少女であることは日本の諸々の事情の産物である。


 セカイ系美少女とは外部性の擬人化であったが、一方でセカイとは彼岸と此岸が接触する点であると一般に言われる。接触は、美少女擬人化という操作“のみ”によって担保されているのだ。人間にとって最良のインターフェースであるということが、美少女という言葉の定義だとさえ私は思っている。

 故にそれは、人の形をしていながら、中身は視点人物からは隔たっているほどよいとされる。改造手術も、異常な精神も、最後に結ばれないことも、全ては「世界に開いた陥穽」であるからこその要請だった(『最終兵器彼女』のシュウジが読者を置いてあちらへ脱出したことを、この議論の中にどう位置付けるべきだろうな?)。

 そして、このような視線を突如日常に引き戻し、現実の異性も同様に「世界に開いた穴」に見えることがあると思い出して作られたのが、『秒速5センチメートル』だった。新海誠が広く認知されたタイミングで『打ち上げ花火(略)』と『ペンギン・ハイウェイ』が映画化されたことも恐らく偶然ではない。


 瑠璃色の地球ついでに述べておこう。『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』公開時、「中年世代に媚びている」という感想が見られた。しかし、このいささか古いが有名な歌は20~30代にも訴求する効果がある。親世代が好んでいた歌は、近似的に「手の届かない過去」を象徴するからだ。

 この映画は14歳の少年少女のヤバいやつを描いており、それはメインターゲットであろう20~30代にとって、手の届かない美化された過去だ。自分が生まれる前の流行歌であり親が車の中などで聴いていたような歌は、その手の届かない美化された過去と同じ属性を持つ。

「戻れない過去」ではなく「手の届かない過去」と言ったことには理由がある。14歳の少年少女のヤバいやつを思い出す時、回想はただ14歳時点で止まるわけではない。この時期の性衝動は死の暗がりにまっすぐに通じており、自分が生まれる遥か以前から存在していた巨大な何物かを垣間見る体験なのだ。

 14歳の男児の心のヤバいやつは、14歳時点で既に、過去に向かって開いている。彼が求めているのは未来のパートナーではなく自分が還る場所だ。それは親より以前に位置するものだ。そのため、自分が14歳の時の流行歌よりも生まれる前の歌の方が、この感覚と親和性が高い。

「打ち上げ花火」は典道が時間を巻き戻すことで自由を得る物語ではない。むしろその行為によって物語は時間的なループに囚われ、舞台は空間的に限定される。最後のカットを除いて、これは観客を自閉的な意識状態へと誘う物語だ。その意識は性衝動のもつ本質的な後ろ向きさと通底している。


[1] さやわか『キャラの思考法』、青土社、2015


〈以上〉

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