25年ぶりに劇場版少女革命ウテナアドゥレセンス黙示録をみた感想
私の人生史上、最高の作品を一つ挙げろと言われたら、
小学生の時にハマった美少女戦士セーラームーンか、
中学の時にハマった少女革命ウテナかで迷う。
いや、TRIGUNかも。
ともかくそのくらい、「少女革命ウテナ」とは私にとって重大な作品だ。
先月のある日いきなり立川シネマシティからメールが来て(有料会員なので当然といえば当然)ウテナの映画アドゥレセンス黙示録を25年ぶりにリバイバル上映するから来い、という。
なんでそういうはこびになったのか?いまひとつピンと来なかったが(25周年とはいえ、なぜ立川で)
ともかく行くしかねえ、ということでとりあえず駆けつけることにした。
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LGBTQの10歩先
性的マイノリティにもマジョリティと同じだけの権利を、と叫ばれて久しい。
しかしほんの10〜20年ほど前まで「バカ」「アホ」と同じ系統の悪口として「オカマ」や「ホモ」もあった。
が、それらは今となってはどれほどヤバい奴がどんなにキレても選ばない、口に出すのもはばかられる言葉になった。
今になって考えてみれば、同性愛者だからといって何をそんなに異様がっていたのだろう?という気がする。
しかし現在のように、社会が同性愛者は異様でない、と認識するのにそれこそ異様に時間を要してしまった。
……かと思いきや、よく文化をみていくと、そもそも日本は同性愛を異様だとは思ってこなかった。
戦国武将には少年の小姓がいたというし、その後は欧米文化を取り入れるかたわら同性愛を異様だとする価値観も一旦は取り入れるものの、戦後成長するマンガ文化の中でなぜか耽美なモチーフとして扱われた。
それは私のもとにも1990年代にセーラームーンのはるかとみちる、カードキャプターさくらの……多様な恋愛観として届いた。
幼い私は初めて接した同性愛を、なにやら耽美な、不思議な神秘的なものとして認識した。(まぁそれも偏見なのだが)
その文脈の最先端に、少女革命ウテナはあった。
ウテナのTV放送が終わり、劇場版の公開が終わり、それから数十年経って、現在のような自分のセクシャリティをアイデンティティの一種として深掘りし、それに立脚した社会的な立場を得ようという社会的な動きが始まった。
この劇場版少女革命ウテナアドゥレセンス黙示録は1990年代後半に公開された作品だが、今見ると現在地点の2024年から、さらに未来を見据えた作品のようにも見える。それがすさまじいと感じた。
女にとっての性愛
小学生の時に愛読していた「りぼん」や「なかよし」に掲載されていたわゆる少女マンガは、
恋愛を美しく、素敵なものとして描いていた。
一方で子供の頃に接した当時のテレビ番組や、田舎の道端に落ちていたエロ本は、性愛を暴力的に、センセーショナルなものとして描いており、直感的に気持ち悪いというより恐ろしく感じた。
中学の時に出会った少女革命ウテナは、
女性にとっての恋愛および性愛を、そのどちらでもないものとして描いていた。
例えて言うと、男性が立身出世を野心的に目指す時の闘争心と同等の精神が女性にあらわれる時の行動として、女性の性愛を描いていたように思う。
幾原監督は男性だが、
女性が恋愛および性愛という行動を取る時に、例えば枕営業とか売春みたいに、恋愛とまったく関係ない形態の対価を得るために性愛や恋愛を理性で行うこと、
そうした延長線上に「玉の輿」に乗るだとか、
ママ友カーストが「夫の」年収や職業で決まるといった、
社会的立場を得るための意味合いを含んだ恋愛・性愛があって、
真面目な女性も遊んでる女性も、年齢を問わずみなそれにとわられていることに気がつき、
登場人物たちをそこから脱させてやりたい、と考えたようなところが面白いなと感じる。
ウテナ放映時中学生だった私はこの作品から「凄み」だけは受け取ったものの、そのような複雑な考察を明確に言語化するには至らなかった。
とはいえ当時天井ウテナと同い年だった私がどれほどこの作品から影響を受けたか……
作中では「(異性に左右されずに)自立して生きる」という武士道的な精神の生き方と、
旧来の通り、女性は男性の威を借りて生きる、そのために恋愛に身をやつす生き方が、
天井ウテナ曰く「気高く生きたい」という言葉をもって天秤にかけられていた。
天秤にかけた末、性愛に頼らず自分の足で歩く生き方こそが正しい(のではないか)というニュアンスで物語は幕を閉じる。
その生き方は、なんと私が当時親の影響で所属していた宗教の教えとも合致していた。
宗教ではその終末思想のため信者やその子供たちに結婚や出産を思いとどまるよう勧めていた。
キリスト教系新興宗教だったこともあり、むしろ「気高き」教えのために生涯を捧げる、ストイックな生涯独身が奨励されていたのだった。
そういう教えを日常的に受けていた背景もあって、
さらに現実問題自分の容姿やキャラがめちゃモテ委員長というわけではなかったということもあって、
なんと現在に至るまで、恋愛経験のない処女を貫いてしまった。
だからこそ、今ウテナの物語を見ると不思議な心地がする。
ウテナみたいに気高く生きる!なんて決意したことこそもちろんなかった。
しかしウテナの物語が暗に是とした生き方、
女性が性を担保に男性からの庇護を受けない生き方を、結果として自分は送ることになった。
自分のことを気高いと思ったことはないし、まわりから気高い(笑)とも思われていないが、
男性によりかからない生き方という意味で、
最終話でアンシーが踏み出した一歩の先を、私は今生きているのだ。
TV版少女革命ウテナのダイジェスト
ということらしい。劇場版は。
今回トークショーの回は仕事だったため、レポをあげてくれている人の書き起こしを読ませてもらった。
幾原監督がこの劇場版少女革命ウテナアドゥレセンス黙示録をどういうつもりで作ったか、話してくれた一文にそのようにあった。
TV版39話を繰り返し見た私からしても、本作はまさに正しくTV版のダイジェストだと思う。
全39話TV版のあらすじを1時間強にまとめる関係上、すべての要素を苛烈に味付けし直している。
だからこそ「スポーツカー」でかっ飛ばすイメージが出てきたのではないだろうか。
TV版は、重たい蓋の棺の中で一人でうずくまっていたアンシーを39話かけて迎えに行く。固く心を閉ざした少女の本心を、39話かけて友達が開く。そういう物語だった。
その痛快さ、迎えに来られた一人の女の子がそれに応え、心を開き、自分の足で一歩を踏み出す結末は、
スポーツカーでかっ飛ばし、あらゆるしがらみを振り切って力強く走り去るイメージにピッタリだ。
二人が裸で外に出るのは、旧来の世界から飛び出して新しい世界に産み落とされたことの暗喩であろう。
当時は気が付かなかったが、ラストのラストのカットで空から降り注ぐ光の画で幕が下りることに、彼女たちの行く末を明るく照らしてやりたい、という監督の親心のようなものを感じて、涙腺が緩んだ。
映像作品としてヤバくない?
もちろんいい意味で。
さて、思春期の頃ウテナから強い影響を受けたものの、そのままはるか記憶の彼方として大人になり、映画をかなり観るようになって、
あらためてこの作品を観て、度肝を抜かれる思いがした。
こ、こんな斬新な映像が、本当に25年前に??
まるでオーパーツみたいな作品だ。
見たこともないような光景が本編のあいだじゅうずっと続く。
それというのも、一つは小林七郎氏のバキバキの背景美術に依るところが多いだろう。
エッシャーのだまし絵みたいな、重力を無視しした建築物の幻想的なイメージが与えるインパクトはすさまじい。
これは魔法の支配するファンタジーの世界なのか?と思いきや、セーラー服、電光掲示板、エレベーター、ブラウン管テレビ、VHS、高速道路と現代の日本みたいな日用品がバンバン出てきては現実に引き戻される。
映像としてもシュールレアリスムを執拗に踏襲していく。
なんか……クライマックスの管制塔と通信するシーンとかぶっ飛び具合がもはやボーボボみたいな不条理ギャグみがあった。
後半のウテナがスポーツカー化する(ウテナがスポーツカー化する?)シーンはロボットアニメもかくやというくらいの凝りようだ。
セクシーなシーンも多いが、なんだか性的な興奮を視聴者に催させることをあまり意図していないようにも感じた。
セクシーなシーンには常に別の意図もあったと思う。
いや、セクシーなシーンに限らずすべてのカットが、すべてのシーンが、なんらかの「見立て」であったと思う。
なんの「見立て」なのか?を推理するにはTV版39話を見るべし、という感じだが、
なんの「見立て」なのか?と頭を使わないでただ映像を観るだけでも、充分価値のある作品になっているところが凄かった。
二度と作れない作品
私は正直、ウテナはとなりのトトロとか、新世紀エヴァンゲリオンなどと同じくらい、それこそセーラームーンと同じくらい名が知れ渡ってもいい傑作だと思っている。
が、さすがにセーラームーンやエヴァと比べると知名度は低い。
今のNetflixみたいな強力な資金源もなかった25年前の水曜日の夕方に、無料でなにげなく放送されていた。
集まったクリエイターたちの才能があったからこんな怪作が出来上がったと思うが、惜しくも爆発的ヒットとまではいかなかった、というのならまた同じクリエイターで集まって別の作品を作ったらいい、と思うかもしれない。
しかし、主人公である天井ウテナに声を吹き込んだ川上とも子氏は2011年に若くしてこの世を去ってしまった。
一度見たら一生忘れられないような特徴的な絵コンテを描いた、橋本カツヨは今や日本を代表するアニメーターの一人、細田守の別名義だ。
色んな事情が重なり、もう二度とこの贅沢な「ウテナ」のような作品を作る座組を組むことは叶わないだろう。
人間の一生は短い。
人間の芸術とは、作る方も観る方も、一期一会だ。その尊い一期一会が、視聴者として中学生の私に起きたこと、その奇跡を思った。
やはりTV版が至高、とはいえ「マシマシ」のリバイバル版として劇場版は必見
もともと「革命」をタイトルに掲げる破壊的な作風だっただけに、さらに濃い味付けにして濃縮した劇場版である今作は、やはりかなり「ぶっ飛んで」いて、一見しただけでは意味をつかみにくいなと思った。
しかしだからといって駄作というわけではなく、本当に素晴らしい作品なので、できるだけ多くの人に見てもらいたいと思う。
なのでTV版の正式なダイジェストであるからといって初見の人に「導入」としてオススメかと言うと、オタクとしてはやはり頑張ってTV版を観てから劇場版を観てほしいと思う。その方が楽しめると思うからだ。
振り返ってみると、ウテナは「百合」作品というよりまどかマギカみたいなシスターフッド×シリアスファンタジーとジャンル分けできるだろうか。
見終えるころには、あなたの心に「革命」が起きたことを、実感することになるだろう。
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