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ねえ兄弟子、補陀落渡海しよ?
補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、自発的な捨身を行って民衆を先導する捨身行の形態である。
補陀落渡海から陰謀が匂ったので、それを面白おかしい話にできたらと思って始めてみたらこうなった。
あらすじ
師匠亡きあと、残された二人の兄弟弟子が営む寺。
ある日を境に、弟弟子は兄弟子を頻りに補陀落渡海させたがるようになる。
いつものように弟弟子を嗜める兄弟子。
果たして弟弟子の思惑は?
1 ねえ兄弟子、補陀落渡海しよ?
「兄弟子! こうなったらもう、補陀落渡海しかありません。兄弟子の法力をもって、観音様に直訴するのです。後のことは、すべて私にお任せくださいぐへへ」
「弟弟子よ。君さ、最近何かに付けてそう言うよね。大体原因も分かってるし。あと私、ぐへへまで聞こえてるんだよね」
「私はぐへへなど申しておりません。それが聞こえているということは、兄弟子の神通力が高まっている証でありましょう」
「神通力に空耳があるか分からないけど、空耳じゃなかったら、君は堕落渡海に成功しているね」
2 観音様は会ってくれない?
「なればこそ、兄弟子の補陀落渡海なのです。堕落の只中にいる私では、とても観音様へのお目通りは叶わぬことでございましょう」
「そもそも君、観音様にお会いする気もないでしょう? だけど、君こそ率先してお会いになってくださるかもね。どう、やってみない? 補陀落渡海」
「とんでもない! 私が去ってしまったら、誰が兄弟子を支えるのです?
師、亡き後、これまで一心同体二人三脚でやってきたではありませんか」
「その言葉、一寸の狂いもなく、君自身にも刺さっているからね?」
3 痛くないわ
「兄弟子よ。ご心配感謝です。しかし、それは無用です。私も、兄弟子ほどではありませんが、日々の修行を怠ってきたわけではありません」
「ほう。それは感心だね」
「なので、まるで痛みを感じておりません」
「それは凄まじい力を身に着けたね。一体どんな修行をして会得したのだろうか。想像するだけで背筋が凍ってしまいそうだよ。それで君は、その力でどうやって衆生を済度せしめるのだろうか」
4 超限定法力
「兄弟子よ。ならば私はこの力で兄弟子無き後の痛みに堪えてみせましょう」
「そんな欣喜雀躍、願ったり叶ったりな顔で言われてもね。君自身の済度は分かったから。それでどうやって衆生を済度せしめるのかい?」
「それはこれから考えます。いや、この力があればこそ考えることができるのです。悲嘆に暮れていてはそれすら覚束無いではありませんか! きっと私のこの力はこの時の為に授かったのです」
「そんな、私を補陀落渡海させたいだけの法力なんて、聞いたことがないよ」
5 ちゃんと聞こえているよ
「弟弟子よ。君の補陀落渡海セットの誤発注の件なら怒ってないから。無理に使おうとしなくてもいいんだよ」
「いえ、あれは別に誤発注では……げふんげふん」
「私、げふんげふんまで聞こえているからね」
「兄弟子よ。私はげふんげふんなどとは一切申しておりません。
それが聞こえてしまっているのであれば、兄弟子の神通力がいよいよもって高みに通じている証! 今こそ補陀落渡海です」
「私にこの遣り取りに覚えがあるのは、神通力とは関係ないからね」
6 応援するから
「ああもう。分かりましたよ、兄弟子。そんなに兄弟子が嫌がるのでしたら、私が補陀落渡海します! その代わり、私が観音様にお目通りが叶わなくても、恨みっこなしですからね? ね?」
「ああ、そう。君の気持ちは分かったよ。君が注文した補陀落渡海セットもちょうど一つあることだし、そんなに君の決意が固いなら、私は止めたりしないよ。君の船出を全力で応援しよう。少し寂しくなるけどね」
「兄弟子よ、そうじゃない。そうではないんです。全然違うんですよ! そこは兄弟子がじゃあ私がって言って、空かさず私がどうぞどうぞと譲るところなんです!」
「いや、知らないよそんなコールアンドレスポンス。でもうん、なんかごめんね」
7 約束が、あるんだよ
「兄弟子の意気地なし。そんなに嫌ですか、補陀落渡海」
「嫌だね。それを意気地なしと取るかは君の自由だけど。私には先にやるべきことがあるんだ」
「…何です?」
「私が弟弟子、君を補陀落まで導く。亡き師との約束だからね」
「どういうことです?」
「少なくとも君が私の助けを借りずにやっていけるようになるまでは、補陀落渡海はしないということだよ」
「兄弟子!」
「うーん。まあでも最近は君も余裕が出てきて余計なことにも知恵が回せるようになって来たからね。そろそろ頃合いかもね、私の補陀落渡海」
「兄弟子?!」
8 分かっちゃった
「兄弟子! どうしてそんなことを仰るのです?! 余裕が出てきて、知恵も回って、しっかりしてきて、水も滴る色男で声もいい、それに最近貫禄も出てきた?」
「いや、そこまでは言ってないよ、弟弟子。あ、でも、無駄にいい声の読経は檀家さんにも好評だよ」
「決してそんなことはありません。私はまだまだです。兄弟子なしではそんなとても。私は、私は……」
「えっと、さっき言ってた私亡き後の痛みに堪える法力は?」
「分かりました!」
「何が分かったのかな?」
「兄弟子、私もお付き合いします。兄弟子の補陀落渡海に、私もご一緒します!」
「ええっ?!」
9 一緒だから始められること
「えっと、弟弟子?」
「何でしょう?」
「補陀落渡海ペアの部とか、私聞いたことがないんだけど」
「兄弟子よ、当然です。私たちから始めるのですから。私たちから始まるのです!」
「うん。だとしてもだよ? さすがに二人で乗るには窮屈でしょ。渡海船」
「兄弟子となら我慢できます!」
「あー、うん。それには及ばない。なぜなら私がそれに我慢ならないからね」
「それなら二艘並べて固定しましょう。離れ離れにならないように。二人で一緒に補陀落を目指すのです」
「それ何て連環の計?」
10 遥か南の果ての山
「まず深呼吸して。よく聞いてね? 弟弟子よ。それにね、その連環の船を双胴船と云うんだけどね? それは外洋航海する船なんだ。君は補陀落がどこにあると思っているんだい?」
「兄弟子。私は遥か南の海の果てと聞いております。少なくとも簡単に行けるような所にあるとは思っていません」
「そう言われると確かにそうか。外洋航海能力は確かに必要かもしれないね」
「おお、乗り気になってきましたか、渡海船」
「なんかもういっそ私を済度して欲しいよね」
11 その道は険しい道?
「分かりました、兄弟子。ならば私が兄弟子の補陀落になりましょう。艱難の海を乗り越えて私の所まで渡って来てください。さあ!」
「えっ? 君、そういう趣味だったの?」
「……兄弟子なら構いません!」
「そのリアルな間!」
「それに別におかしいことではありませんよね? 我々の業界では!」
「うーん、そうか。それなら僕は、何より先ず君に観音様を見出さないとね」
12 いざ補陀落渡海
「兄弟子よ。そろそろ考えていただけましたか? 補陀落渡海」
「弟弟子よ。君も毎日毎日飽きないね。ああそうだ。決まったんだよ。私、今度補陀落渡海してくるね。留守の間の寺のことは君に任せるから」
「なんと! ついに決心されましたか。兄弟子ならそう言ってくれると思っていました。寺のことはお任せください。補陀落渡海の支度もご心配なく。すぐに準備致します」
「それには及ばないよ。飛行機で行くから」
「そんな最新鋭の渡海船なんて聞いたことがありませんよ? グライダーか何かでしょうか」
「いいや、普通の旅客機。補陀落といっても、チベットだから」
「はい?」
13 ねえ兄弟子、補陀落渡海しよ!
「ポタラ宮だよ。チベットにある補陀落。一度見て勉強しておこうと思って。この頃弟弟子も熱心に頑張ってるみたいだし、しばらく寺を君だけに預けても問題ないかなと思って」
「そんなの狡いじゃないですか! 私だって行ってみたいですよポタラ宮。ぽたらきゅうー!」
「あー、やっぱりこうなるか。なんとなく察してはいたんだけどね。ああ、分かった分かった一緒に行こうポタラ宮。一緒にね。君が傍にいないと不安だからね。寺のこととか」
「はい!」
「ほんとに昔から、返事と調子だけはいいんだから。師匠にもそれだけは褒められていたからね」
「はい!」
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