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デイモン・ラニアン 「リトル・ミス・マーカー」新翻訳

割引あり

デイモン・ラニアンの文庫本は、現在絶版となっており、中古市場では3万円以上で取引されているようです。私は、馬場康夫氏のYouTubeでラニアンの存在を知り、それ以来すっかり彼の作品に夢中になっています。

読んでみると、その値段に納得するほど面白く、ユーモアと人間味にあふれた作品ばかりです。私の拙い翻訳ですが、ラニアンの魅力を少しでも感じ取っていただければ幸いです。ぜひその片鱗を味わってみてください。


 リトル・ミス・マーカー

 デイモン・ラニアン: 著

 夜の7時ごろだった。いつものように、ミンディーズ・レストランの前のブロードウェイには人が集まっていて、あれこれおしゃべりしてた。特に、午後のレースで酷い目にあった話で盛り上がってたんだ。

 そこに誰が現れたと思う? ソロウフルって呼ばれてる男さ。右手に人形のように小っちゃな女の子をぶら下げてね。

 ソロウフルってのは、いつも悲しそうな顔してるからそう呼ばれてるんだ。特に誰かが金を借りようとすると、その顔つきはもう見てられないくらい悲壮になる。実際、彼に金を借りようとするやつで、2分間彼の愚痴を聞いたあと泣き出さないやつがいたら、そいつはよっぽど冷たい心の持ち主だよ。

 競馬師のリグレットが言ってたんだけど、一度ソロウフルに10ドル借りようとしたら、逆に彼の話に同情しちゃって、他のやつから10ドル借りてソロウフルに渡しちゃったらしい。みんな知ってるんだ、ソロウフルがどこかに大金を隠してるってことはね。

 ソロウフルは背が高くて痩せてて、長くて悲しげな意地悪そうな顔をしてる。声も陰気そのもの。たぶん60歳くらいかな。俺の記憶が正しければ、49番街の中華料理屋の隣で賭け屋をやってる。この町じゃ、かなりの大物賭け屋さ。

 彼はいつも一人でいるんだ。一人なら金がかからないからな。だから、おチビちゃんを連れてるのを見たときは、みんな驚いたよ。

 ソロウフルが家族や親戚、友達を持ってるなんて話、誰も聞いたことないから、みんな「どういうことだ?」って首をかしげてた。

 そのおチビちゃんは本当に小さくて、ソロウフルの膝までやっと届くくらいだ。まあ、ソロウフルの膝がやたら高いってのもあるけどね。

 しかも、その子はすごく可愛かった。大きな青い目に、ふっくらしたピンクの頬、黄色い巻き毛が背中に垂れてて、太い足と大きな笑顔。でもソロウフルが乱暴に引っ張ってるから、半分は地面を引きずってて、泣きそうな顔になっててもおかしくないくらいだったよ。

 ソロウフルはいつにも増して悲しげな顔をしてて、見てるこっちが胸が痛くなるくらいだった。ミンディーズの前で立ち止まって、俺たちに「中に入れ」って合図してきたんだ。何か深刻な問題があるのは明らかで、みんな「もしかして、持ってる金が全部偽物だって気づいたのか?」なんて思ってたよ。金以外でソロウフルが心配するなんて、考えられないからさ。

 とにかく、4、5人がソロウフルのテーブルに集まった。彼はそのおチビちゃんを隣に座らせて、驚くべき話を始めた。

 話によると、その日の午後早くに、何日かソロウフルの店で賭けをしていた若い男がやってきたんだって。そのおチビちゃんを連れてね。彼はエンパイア競馬場の第1レースの発走まで、あとどれくらいかを聞きたがってたらしい。

 残りは25分しかなかったもんだから、彼はひどくがっかりしてた。だって、そのレースで確実に勝つ馬を知ってるんだって言うんだよ。前の晩に、ジョッキー・ワークマンの従者の友達の知り合いから聞いたんだそうだ。

 その男は、その確実な馬に2,000ドル賭けるつもりだったんだけど、昨夜はそんな大金を持ってなかった。それで、朝早く起きて14番街の知り合いに金を借りに行く予定だったのに、寝坊して発走時間が迫ってたもんだから、14番街まで行って戻ってくる時間がなかったって。

 そいつ、ほんと不運だったよ。まあ、ソロウフルにはあんまり響いてなかったみたいだけどね。レースが始まる前から、誰かに金をせびられそうで、すでに悲しい顔してたんだから。

 で、その若い男がこう言ったんだ。「もし間に合わなかった時のために、2,000ドルの借用書を預けておくよ。そして、戻ってくるまでこの子を担保として置いていく」ってね。

 普通ならさ、ソロウフルに借用書を渡すなんて愚かな行為だってみんな知ってる。ソロウフルは、アンドリュー・メロン(アメリカの銀行家、政治家)からだって借用書は受け取らないんだ。彼の話を聞いてると、借用書を受け取った賭け屋がみんな貧乏に転落した話ばかりだからさ、もう聞いてるだけで気の毒になるくらいだ。

 でも、この時は忙しい時間帯だったし、その若い男はここ数日常連だった。しかも、正直そうな顔をしてたから、ソロウフルは「2,000ドルのためにおチビちゃんを引き取りに来ないわけがない」と思ったんだ。それに、ソロウフルは子供のことはよく知らないけど、このおチビちゃんは少なくとも2,000ドル、いやそれ以上の価値があるように見えたってわけだ。

 それで、ソロウフルは頷いて、若い男はおチビちゃんを椅子に座らせて、金を取りに急いで出ていったんだ。ソロウフルは「コールド・カッツ」って名前の確実な勝ち馬に2,000ドルの賭けを記録した。その後しばらく、この件のことは忘れていて、おチビちゃんはずっと椅子に大人しく座っていた。ソロウフルの客に笑顔を向けてね。時々中華料理屋から来る中国人客にも。

 結局、コールド・カッツは大敗。5着にも入れなかった。午後遅くになって、ソロウフルはふと気づいたんだ。若い男が戻ってこないこと、そしておチビちゃんがまだ椅子に座っていることにね。ただし今は、中華料理屋の中国人客の一人が退屈しのぎにくれた包丁で遊んでいたけど。

 やがて閉店時間になっても、おチビちゃんはまだそこにいた。ソロウフルは他に方法が思いつかなくて、おチビちゃんをミンディーズに連れてきて、みんなに相談することにしたんだ。店に一人で置いていくわけにはいかなかったからね。ソロウフルは誰も信用していないから、自分自身だって店に一人では置かないくらいさ。

「で、」長々と説明した後、ソロウフルが言うんだ。「この件、どうしたらいいと思う?」

 もちろん、この時点まで俺たちはこの件に巻き込まれるなんて思ってもいなかったし、個人的には関わりたくなかったんだ。でも、クラップ・シューターのビッグ・ニグが口を開いたんだ。

「この子が一日中お前の店にいたんなら、」ニグが言う。「今すぐ飯を食わせるのが一番だぜ。腹ペコで死にそうだろうよ」

 これは良さそうなアイデアだったから、ソロウフルはハムホックとザワークラウトを2人前注文したんだ。ミンディーズじゃいつでも美味い料理さ。おチビちゃんは両手を使って、すごい勢いで食べ始めた。ただ、隣のテーブルにいたデブのおばさんが、「こんな時間に子供にそんな食べ物を与えるなんてひどい。お母さんはどこにいるの?」って言い出したんだ。

「いやあ」ビッグ・ニグがそのおばさんに言ったんだ。「この町じゃ、他人の事に首を突っ込んで鼻を折られた奴をよく聞くけどな。でもまあ、いいこと言ってくれたよ」それからおチビちゃんに向かって、「ねえ、お母さんはどこだい?」って聞いたんだ。

 でも、おチビちゃんは知らないみたいだった。それとも、言いたくなかったのかもしれない。首を振って、ビッグ・ニグに笑いかけただけさ。口がハムホックとザワークラウトでいっぱいで、話せなかったんだろうけどね。

「名前は?」ってビッグ・ニグが聞いたら、マーキーみたいな音に聞こえたんだって。俺にはマーサって言ってるように聞こえたけど。まあ、それからずっとマーキーって呼んでたんだ。

「いい名前だな」とビッグ・ニグが言う。「マーカー(借用書)の略だし、ソロウフルが嘘ついてないなら、まさにマーカーだしな。それにしても、可愛い子だし、頭も良さそうだ。マーキー、何歳?」

 また首を振っただけだったから、馬の年齢を歯で判断できるって言う競馬師のリグレットが、歯を見ようと指を口に入れたんだ。でも、マーキーはリグレットの指をハムホックの一部だと思ったみたいで、ガブッと噛んじゃって。リグレットは悲鳴を上げたけど、「一生不具にされる前に見た感じ、3歳か4歳くらいだな」って言ってた。まあ、それくらいが妥当そうだよね。

 そうこうしてるうちに、手回しオルガンを持ったイタリア人がミンディーズの前に現れて、音楽を奏で始めたんだ。奥さんが通行人にタンバリンを回してる中、マーキーはその音楽を聞いて、口をハムホックとザワークラウトでいっぱいにしたまま椅子から滑り降りたんだ。あわや窒息しそうなくらい早く飲み込んで、こう言ったんだ。

「マーキー、踊る」って。

 それから、テーブルの間をピョンピョン跳ね回り始めたんだ。短いスカートを手で持ち上げて、白いパンツを見せながらね。そこへミンディ本人が来て、店をダンスホール代わりにするなって文句を言い始めたんだけど、マーキーを興味深く見てたスリープアウトって奴が、「余計なこと言うと砂糖入れをぶつけるぞ」って脅したんだ。

 ミンディは引っ込んだけど、白いパンツを見せるのは品がないって文句を言い続けてた。もちろん、それは馬鹿げてる。マーキーより年上の女の子たちが、ミンディーズで踊るのはよくあることだからね。特に深夜、ナイトクラブやスピークイージーから帰る途中に寄るときなんかは。しかも、白いパンツじゃない子もいるって聞くしね。

 個人的には、マーキーの踊りは結構良かったと思うよ。まあ、パブロワじゃないけどさ。最後は自分の足につまずいて転んじゃったけど、笑顔で立ち上がって椅子に戻って、すぐにソロウフルに寄りかかって寝ちゃったんだ。

 さて、ソロウフルがマーキーをどうすべきか、みんなで議論になったんだ。警察に届けるべきだとか、朝刊の「迷子」欄に広告を出すべきだとか、アンゴラ猫やペキニーズみたいな動物を拾った時みたいにね。でも、どの案もソロウフルの気に入らなかったみたいだ。

 結局、自分の家に連れて帰って、どうするか決めるまで寝かせておくって言い出した。それで、ソロウフルはマーキーを抱いて、ウェスト49番街の安ホテルに連れて行ったんだ。そこに何年も住んでるらしい。後でベルボーイから聞いたんだけど、ソロウフルはマーキーが寝てる間、一晩中起きて見守ってたらしいぜ。

 そしたらどうだ、ソロウフルがマーキーにメロメロになっちまった。これが驚きだよ。だってソロウフルは今まで誰も何も好きになんてならなかったからな。一晩一緒にいただけで、手放すなんて考えられなくなっちゃったんだ。

 個人的には、3歳の子狼の方がまだマシだと思うけどね。でも、ソロウフルにとっては、マーキーが現れたことが人生で最高の出来事だったみたいだ。誰の子かをちょっと調べてみたんだけど、何も分からなかった。ソロウフルはそれで大喜びさ。まあ、他の連中は最初から分かるわけないって思ってたけどね。この町じゃ、子供を椅子に座らせたまま置き去りにしたり、玄関先に捨てたりして、見つけた人が孤児院に預けるなんてよくあることだからな。

 とにかく、ソロウフルはマーキーを引き取るって言い出した。みんな驚いたよ。だって、マーキーを育てるには金がかかるだろ? ソロウフルが何かに金を使うなんて、今まで考えられなかったことだからな。本気らしいと分かると、みんな「何か裏があるんじゃないか」って考え始めて、いろんな噂が飛び交ったんだ。

 もちろん、その中には「マーキーがソロウフルの実の子供で、怒った母親が突き返してきたんじゃないか」っていう噂もあった。でも、これはソロウフルを知らない奴が言い出したことで、ソロウフルを見た途端に謝った。「ソロウフルに手を出すほどバカな女はいないって分かりました」ってね。俺としては、ソロウフルがマーキーを引き取りたいなら、それは奴の勝手だって思ってたし、ミンディーズの連中も同じ意見だった。

 問題は、ソロウフルがマーキーの世話を突然みんなに押し付け始めたことさ。ミンディーズの連中に話す感じだと、まるで俺たち全員がマーキーの面倒を見る義務があるみたいなんだ。ミンディーズの常連のほとんどは独身か、独身になりたい連中だから、急に家族ができたみたいで、みんな困っちゃったんだ。

 俺たちの何人かは、ソロウフルに「マーキーの世話は全部自分でやるべきだ」って説明しようとしたんだ。でも、ソロウフルがすぐに「友達が一番必要な時に見捨てるのか」って悲しそうに話し始めるもんだから、みんなの心が溶かされちゃったんだ。それまでは泥棒と警官みたいに冷え切ってた関係だったのにね。結局、毎晩ミンディーズで「マーキーのことを決める委員会」みたいになっちゃったんだよ。

 まず最初に決めたのは、ソロウフルの住んでる安ホテルがマーキーには良くないんじゃないかってこと。それで、ソロウフルはウェスト59番街の超高級マンションを借りて、家具にも大金をかけたんだ。それまでは週10ドルくらいの家賃でも贅沢だと思ってた奴なのにね。マーキーの寝室だけで5,000ドルかかったって聞いたよ。純金のトイレセットはその値段に入ってないって話だ。それから車も買って、運転手も雇ったんだ。

 最後に、「ソロウフルとマーキーと運転手だけじゃまずい」ってみんなで説明したら、ソロウフルは「マムゼル・フィフィ」っていう赤い頬のボブヘアのフランス人女性を、マーキーのナースとして雇ったんだ。これは賢い選択だったよ。マーキーに良い相手ができたからね。

 実は、マムゼル・フィフィを雇うまでは、マーキーのことを面倒くさがる奴も出てきてたんだ。でも、フィフィが来てからは、ソロウフルの新居もミンディーズのテーブルも大賑わい。ところが、ある晩ソロウフルが早く帰ったら、スリープアウトがフィフィとイチャついてるところを見つけちゃって。ソロウフルは「マーキーに悪影響だ」って言って、フィフィをクビにしたんだ。

 次に雇ったのは、クランシー夫人っていうおばあさん。フィフィよりは良いナースだったし、マーキーに悪影響を与える心配もなかったけど、ソロウフルの家の人気は一気に落ちたね。

 ソロウフルったら、それまで超ケチだったのに、急に散財し始めた。マーキーにお金をかけるだけじゃなく、ミンディーズとかで他人の分まで払うようになったんだぜ。それまでは他人の分を払うなんて考えられなかったのにね。

 さらに、人から金を借りることにも抵抗がなくなってきて、顔つきまで変わっちゃった。昔は悲しそうで意地悪そうな顔だったのに、今は時々笑顔を見せるようになったんだ。みんなに挨拶もするし、みんなが「マーキーには市長からメダルをあげるべきだ」って言ってたよ。こんな素晴らしい変化を起こしたんだからね。

 ソロウフルはマーキーが可愛くて仕方ないもんだから、いつも一緒にいたがるんだ。でもね、賭け屋に連れて行って中国人や馬券買いと一緒にいさせたり、夜中までナイトクラブに連れ回したりするもんだから、さすがに批判が出てきたんだ。「小さな女の子をそんな風に育てるのは良くない」っていう奴らが増えてきたわけさ。

 ある晩、ミンディーズでこの件について会議を開いて、ソロウフルに「賭け屋には連れて行かない」って約束させたんだ。でも、マーキーはナイトクラブが大好きで、特に音楽があるところが好きだから、完全に禁止するのは可哀想だって意見もあってさ。結局、週に1回だけ54番街のホットボックスに連れて行くことにしたんだ。マーキーの家から近いし、早めに帰れるからね。実際、その後はほとんど夜中の2時より遅くまで出歩くことはなくなったよ。

 マーキーが音楽のあるナイトクラブを好きな理由は、そこで踊れるからなんだ。マーキーは踊るのが大好きで、特に一人で踊るのが好きなんだ。最後は必ず転んじゃうんだけど、それがまた芸術的な締めくくりだって言う奴もいるくらいさ。

 ホットボックスのチューチューボーイズバンドは、いつもマーキーのために特別な曲を演奏してくれるんだ。ブロードウェイの常連たちは大喜びで拍手喝采さ。でも、ホットボックスのマネージャーのアンリは、マーキーの踊りをあまり歓迎してないんだ。ある晩、パークアベニューから来た上流客、百万長者2人と年配の婦人2人が、マーキーが転ぶのを見て笑い出しちゃって。ビッグ・ニグがその男たちを殴って、婦人たちにも手を出しそうになって、大騒ぎになったんだ。

 さて、ある寒い雪の夜のこと。みんながホットボックスでおしゃべりしながら一杯やってたら、ソロウフルが帰り道に寄ったんだ。最近のソロウフルは社交的になってたからね。この日はマーキーの外出日じゃなくて、クランシーさんと家にいたから一人だった。

 ソロウフルが来て数分後、ウェストサイドのミルクイヤー・ウィリーってのが入ってきたんだ。こいつは元ボクサーで、カリフラワーのような耳をしているからそう呼ばれてる。いつもズボンのポケットにピストルを忍ばせてるって噂さ。何人か殺したこともあるらしく、かなりヤバい奴だって評判なんだ。

 ミルクイヤーがホットボックスに来たのは、ソロウフルを撃ち殺すためだった。前日のレースの賭けで揉めてたからね。ソロウフルは危うく死ぬところだったよ。ミルクイヤーが向こうのテーブルからピストルを取り出して狙いを定めた瞬間、なんとマーキーが飛び込んできたんだ。

 マーキーは長いパジャマを着てて、裸足で走ってくるもんだから、パジャマが足に絡まって、ダンスフロアを横切りながらソロウフルの腕に飛び込んだんだ。もしその時ミルクイヤーが撃ってたら、マーキーに当たる可能性があった。でもそれだけは避けたかったから、ミルクイヤーはピストルをしまって、出て行きながらアンリに「子供をナイトクラブに入れるなんてとんでもねえ」って文句を言って帰っていったんだ。

 ソロウフルがマーキーに命を救ってもらったことを知ったのは後のことだった。雪の中を裸足で4、5ブロックも歩いてきたことにショックを受けてたからね。みんな驚いて、「マーキーがどうやってここを見つけたんだ?」って不思議がってた。でも、マーキーは「クランシーさんが寝ちゃって、ソロウフルに会いたくなった」としか言わなかったんだ。

 その時、チューチューボーイズがマーキーの曲を弾き始めたんだ。マーキーはソロウフルの腕から抜け出して、ダンスフロアに駆け出した。
「マーキー、踊る」って言いながらね。
 パジャマを手で持ち上げて、跳ねたり跳んだりし始めたんだ。ソロウフルがまた抱き上げて、コートで包んで家に連れて帰るまでね。

 次の日、マーキーは雪の中を裸足でパジャマ姿で歩いたせいで風邪を引いちゃって、夜には肺炎になってしまった。ソロウフルはクリニックに連れて行って、看護師2人と医者2人を雇った。ソロウフルはもっと多く雇いたがったけど、「今はこれで十分だ」って医者たちに言われたんだ。

 次の日もマーキーは良くならなくて、その夜はもっと悪化した。クリニックは大混乱さ。果物やキャンディー、花輪、人形やおもちゃの箱が次々と届くから、置き場所がなくなっちゃってね。それに、マーキーの部屋がある階を、ビッグ・ニグやスリープアウト、ウォップ・ジョーイ、ペイルフェイス・キッド、ギニー・マイクなんかの有名人たちがつま先立ちで歩き回るもんだから、病院側も困ってた。特に、そいつらが看護師をデートに誘おうとしていたしね。

 病院側の立場も分かるけどさ、スリープアウトほど患者たちを元気づける訪問者はいないよ。個室や病棟を回って、みんなに優しい言葉をかけてくれるんだ。何かを物色してるって噂もあるけど、俺は信じないね。実際、ロックビルセンターから来た黄疸持ちの婆さんなんか、スリープアウトが追い出されたときに大騒ぎしてた。「セールスマンさんの話の途中だったのに」ってね。

 クリニックにはすごい数の有名人が出入りしてたから、新聞社は「きっと有名なギャングが撃たれて入院してるに違いない」と思い込んで、記者たちがウロウロし始めたんだ。でも、すべての騒ぎの中心がただの小さな女の子だって分かると、記者たちはますます興奮しちゃってさ。まるでジャック・ダイアモンド(禁酒法時代の有名なギャング)の事件よりも大きなニュースみたいに扱われたんだ。

 翌日の新聞には、マーキーのことやソロウフルのこと、そしてブロードウェイの有名人たちがクリニックに集まってることが大きく取り上げられたんだ。さらに、スリープアウトが他の患者たちを楽しませてるって記事まであって、まるで慈善家みたいに書かれてたよ。

 マーキーが入院して4日目の朝3時頃、ソロウフルがミンディーズに来たんだ。すごく悲しそうな顔をしてね。チョウザメのサンドイッチを注文して、マーキーの具合がどんどん悪くなってるって話し始めたんだ。医者たちじゃ手に負えないってさ。そしたらビッグ・ニグが言い出したんだ。

「ビアフェルト先生って肺炎の専門医がいるんだ。あの人なら簡単にマーキーを治せるだろうよ。でもまあ、ジョン・D・ロックフェラーか大統領くらいじゃないと、あの先生には会えないだろうけどな」

 みんな、ニグが言ってることが本当だって知ってたよ。ビアフェルト先生はこの町で一番の名医だけど、普通の人が近づくのは無理なんだ。年も取ってて、ごく一部の金持ちや影響力のある人たちしか診ない。しかも、自分でも金持ちだから、お金には興味がないんだ。こんな時間に先生を呼び出そうなんて、無茶な話さ。

「誰か、ビアフェルト先生を知ってる人いないか?」とソロウフルが言った。「マーキーを診てもらえるように頼める人はいないのか? いくらでも払うからさ。誰か思いつかないか?」

 みんなが考えてる間に、ミルクイヤー・ウィリーが入ってきた。ソロウフルを撃つつもりだったんだが、スリープアウトがすぐに飛び出して、彼を隅のテーブルに連れて行き、耳元でヒソヒソ話し始めたんだ。

 ミルクイヤーは驚いた顔でソロウフルを見て、それから頷き始め、急いで店を出て行った。スリープアウトが戻ってきて言うには:
「よし、クリニックに行こう。ミルクイヤーをビアフェルト先生のパークアベニューの家に行かせて、病院に連れてくるように頼んだ。でもな、ソロウフル、もし先生を連れてこれたら、あの賭けの金は払わなきゃならないぞ。ミルクイヤーが正しいんだろうし。実は俺も昔、お前に賭けで負けたことになってるが、あの時も俺が正しかったんだからな」

 正直、スリープアウトの話は冗談かと思ったし、みんなもそう思ってた。でも、ソロウフルを励ましてるんだろうし、何よりミルクイヤーがソロウフルを撃つのを止めたんだから、スリープアウトの思慮深さには感心したよ。

 12人くらいでクリニックに向かって、ほとんどが1階のロビーで待ってた。ソロウフルはマーキーの部屋の前に座り込んでた。入院以来、ずっとそこにいて、ミンディーズに食事に行く時以外はほとんど動かなかったんだ。時々、ドアを少し開けてもらってマーキーを覗いていた。

 6時頃、タクシーが止まる音がして、ミルクイヤー・ウィリーとファッツ・フィンスタインって奴が中に入ってきた。2人の間にいたのは、小さな老人で、顎には髭を生やし、シルクのガウンを着たままだった。すごく怒ってて、動揺してる様子で、ミルクイヤーとファッツに背中を押されるようにして入ってきたんだ。

 この老人こそ、あの有名な肺炎の専門医、ビアフェルト先生だったんだ。めちゃくちゃ怒ってたけど、無理もないよ。後で聞いた話によれば、ミルクイヤーとファッツが執事を殴り倒して、先生の寝室に押し入って、ピストルで脅して連れ出したんだって。

 正直、こんな扱いは名医に対してひどすぎると思ったよ。俺がビアフェルト先生なら、病院に着いたらすぐに警察を呼ぶね。先生もそのつもりだったかもしれないけど、ロビーに引きずり込まれたとき、ちょうどソロウフルが階段を降りてきたんだ。ソロウフルは先生を見るなり駆け寄って、こう言ったんだ:

「先生、どうか私の娘を助けてください。死にそうなんです。まだ小さな女の子で、マーキーって言います。私はただの胴元で、先生にとっては何の価値もない人間ですが、どうか娘を救ってください」

 ビアフェルト先生は顎髭を突き出して、しばらくソロウフルを見つめてた。ソロウフルの目には大粒の涙が浮かんでたんだ。きっと、長い間涙を流してこなかった目だろう。それが先生には分かったんだろう。先生は周りを見回して、ミルクイヤーとファッツ、俺たち、それから集まってきた看護師や研修医たちを見ながら、こう言ったんだ:

「これは何だ? 子供か? 小さな子供か? てっきりこいつらが仲間のゴロツキの治療のために俺を誘拐したのかと思ったぞ。子供なら話は別だ。最初からそう言えばいいものを。子供はどこだ? それと、誰か、ズボンを持ってきてくれ」

 みんなでマーキーの部屋まで先生について行って、先生が中に入ると外で待ったんだ。何時間も待って、ついに午前10時半頃になって、先生がそっとドアを開けて、ソロウフルを呼び入れた。それから俺たち全員に「入れ」と合図したんだ。先生は悲しそうに首を振ってた。

 マーキーは、狭い高いベッドの上で白い壁に咲いた花のように横たわってた。金髪が枕に広がってたんだ。ソロウフルはベッドの横にひざまずいて、肩を震わせて泣いてた。スリープアウトが風邪を引いたみたいに鼻をすすっているのが聞こえたよ。

 部屋に入った時、マーキーは寝ているみたいだった。でも、俺たちが見下ろしていると、彼女はゆっくりと目を開けて、一人一人に微笑んでくれた。まるで俺たちを認識したみたいにね。そして、ソロウフルに向かって小さな手を伸ばそうとしたんだ。

 その時、半開きの窓から、近くの会場でリハーサルしているジャズバンドの音楽が聞こえてきた。マーキーもその音楽を聞き取ったみたいで、聴き入るように首を少し傾けて、それからもう一度俺たちに微笑んで、はっきりとこう囁いたんだ:

「マーキー、踊る」

 マーキーはいつものようにスカートを持ち上げようとしたんだけど、その手は胸の上に雪のように白く軽く落ちていって、もう二度とこの世で踊ることはなかったんだ。

 ビアフェルト先生と看護師たちがすぐに俺たちを部屋から追い出した。廊下で黙って立っていると、若い男と二人の女、一人は年配で、もう一人は少し若い感じの女性が、興奮して近づいてきた。若い男はソロウフルを知っているみたいで、ドアの外で椅子に座っているソロウフルに駆け寄り、こう言ったんだ:

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