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第186話:トイレの闇
職場に安全衛生委員会という職員の問題を話し合う会があって、ある時そこに「職員トイレを1台でいいからシャワートイレにしてほしい」という要望が出されて議論になった。
一般の方がこの議論をどう思われるのか窺ってみたいのだが、このご時世、企業の人たちからは失笑を買うような議論なのであろうか?
内閣府HPによると、シャワートイレの普及率はH24で73.5%、令和に入っては80.4%となっている。いまさらシャワートイレがない職場など天然記念物のような存在なのかと。
学校という組織は良くも悪しくも、時代の最後尾をのろのろと歩む牛のような存在であり身近にシャワートイレが設置されている学校を聞いたことがない。
80%の普及率だと言われても、僕の家は和式、これまでの人生でシャワートイレお世話になった経験も天文学的に少ない。
したがってこの議論が出た時、僕は優に築40年を越えるオンボロ校舎にシャワートイレはおよそ似つかわしくなく、逼迫した財政に頭を抱える担当の否定的発言もあって、この要望を文明に毒された贅沢な要望だと思っていたのである。
しかしその後、紆余曲折を経て職員トイレに1台だけにシャワートイレがつけられることになった。
しかし、である。あろうことか使い始めてみるとなかなかにこれは心地よく、慣れてくるとお尻が洗われている時のこそばゆい感覚や、お尻がきれいになるような清潔感の錯覚が心地よく、何となくこれを好んで使うようになった。
慣れというのは恐ろしい。
次第にトイレに行ってこのシャワートイレがふさがっていると、別のトイレを使えばいいものをしばらく時間をおいて出直すようになった。
いや、職場だけでなく外でトイレを利用する時もそれでないと何だか寂しい気分に襲われもし、それどころか休日に家で過ごす時にも自分の家のトイレを使わず、近くのコンビニにまでわざわざ出かけて用を足すようにさえなったのである。
簡単に言えば、図らずもシャワートイレ依存症に陥ったことになる。
それは全く僕にとっては僕らしくない出来事だったのだが、しかし、そういう依存症の人は結構いるらしく、翌年の委員会には「もう1台設置してほしい」という要望が出された。「1台という約束だ」という逼迫した財政に頭を抱える担当の断固たる主張をもって却下されたが。
その会議の席では様々な話題が出た。
ある同僚は「夫はシャワートイレでないと用が足せず、常に携帯用の洗浄器を持ち歩いている」と言った。
音姫の存在もこのとき初めて知った。「音」を嫌って水を流しっ放しで用を足す人が多いため節水や周辺部品の消耗を抑える目的で開発されたらしく、最近では携帯のアプリにもその種のものがあると言う。
ググってみると確かに携帯用おしり洗浄器やトイレ用擬音装置というものが存在していて僕は驚嘆したのだが、大学生がアパートを決めるのにシャワートイレか否かが結構な決め手になるらしい。
君たちもそうか?と聞くと女子の中には、やはり「じゃなきゃ、嫌」と言う生徒もいた。
時代は変化したのである。
シャワートイレ依存症に陥った自分を棚に上げて文明批判を気取る気もない。でも、得ることは失うことであるとしたら、何を失ったのかを考えてみるのも無駄ではないかもしれないとも思う。
例えば、洋式トイレに慣れた若い世代では、和式トイレで用を足す蹲踞の姿勢、いわゆるウンチングスタイルができない人が多くなっているとも聞く。得意なのはコンビニの駐車場にたむろする不良君たちくらいかもしれない。
壺の上に板を渡しただけの便所にかがみながら、新聞紙や広告、雑誌を破いてそれを揉んでお尻を拭いていた時代からすると「逞しさ」の喪失とも言えるかもしれない。うがった言い方をすれば、得ることによって失うという逆説は「守ることで弱くなる」という逆説に通じているかもしれない。
でも、たぶん、トイレの進化によって失われた最も大きなものは闇だったのではないかと僕は思ってみる。
便所の部屋の暗さ、後架の穴の奥の闇、それは、もはや、たぶん消滅した。
話が飛躍するのをお赦しいただきたいが、子供時分、その記憶のそこここにそうした「闇」が見え隠れしている。田舎の百姓屋のこと、幽霊がそこに潜んでいると言われればそう信じざるを得ないような深々とした闇が至るところにあった。
古い箪笥が置かれ湿った臭いのした納戸、黒く煤けた梁があらわになっていた台所、土間はいつも冷たい陰鬱な空気を家の中に漂わせていたし、そこから階段で通じていた天井裏の物置には蜘蛛の巣と埃と暗闇しかなかった。
遊びに気を取られて紛れこんでしまった天井裏や縁の下。
悪戯に兄に閉じ込められた納戸の戸棚。
電灯もなく小さな明かり取りの窓から差し込む光が朧に差し込んでいただけの倉。
家の中は昼間でもどことなく薄暗く、夕闇が落ちて来れば、どこか心もとない閑散とした寂しさが押し寄せた。
子供の僕にとってそれは取り留めのない足元をすくわれるような寂しい闇だった。
ある日、遊びほうけて気が付くと川の堤防に一人で立っていたことがあった。
夕焼けが空に僅かにその赤みを残しながら、辺りは薄闇から刻々と深みを増し始めていた。ふと我に返ると、初めて自分が一人であることに気付き、同時に押し寄せて来る闇の深さに気付いたのだった。
恐る恐る辺りを見回すと静かな風に鬱蒼とした夏草が音もなく揺れ、堤防の道がぼんやりと白くつながって、その先に山が黒々とした姿を横たえていた。
その時突然、大きな筒のようなものに自分が今にも覆われてしまうような恐怖感にとらわれ、自分の背中に自分を飲み込む空洞のようなものを感じた。
呆然として一瞬立ちすくんだ後、やもたてもたまらず堤防を駆け降り、後ろから迫って来る何かに追われながら家まで一目散に走って帰った、そんな少年期の小さな記憶である。
それは僕が初めて経験した畏れについての感じであったかもしれない。
おほわれておしつぶされる瞬間の僕の悲鳴を聞いた気がする
でも、闇が持つ畏怖の感覚、それは恐怖であると同時に、どこかで僕らの「モラル」の根っこになっていたのではないかと思ってみたりする。それが僕らが「失ったもの」だったかもしれない。
畏怖を知らなければ傲慢になれる。
かつて、トイレのキンカクシの奥にトウトウとたたずむ闇の深さは、まさに実存を揺り動かされる闇の深さだった。
今、トイレで用を足しながら、そこに記されているTOTOという文字を見るたびに、もしこの会社がそうしたことを了解した上でこの名を付けたのだとしたら、これは甚だ哲学的なトイレではないかと、そんなことを考えてみたりするのである。
■土竜のひとりごと:第186話