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第177話:身辺整理と僕とゴミと1円

何年か前の暮れにどういうわけか突然にもう人生も残り少ないことを感じ、死んだ後にカミさんが困らぬよう身辺整理などしてみる気になった。

まず、棚の2、3段分を占めていたかつて担任したときの登板日誌や文集の類。

そんなものを処分するのは教員としてあるまじき行為ではないかと非難されそうだが、4年に一回開いてくれているあるクラスの同窓会に、思いついて持って行ったところ、すでに大人になっている彼らにとって、やんちゃだった高校時代の自分の書いたやんちゃな文章は耐えられなかったらしく、
「なぜこんなものを持ってきたのか」
「すぐに処分してほしい」
と言われた。

確かに僕の思い出としては捨てがたいが、彼らにとっては自分の若き日の日記が公開されているようなものであるらしい。多くの人にとって、過去は輝かしいものではなく、未熟な「コッパズカシイ」ものなのであろう。

自分とても同じことで、実は高校2年くらいから大学時代にかけて日記を書いていて、それが大学ノート何冊にもなって押入れの段ボールに突っ込まれていた。
いくたびかの引っ越しで処分しなかったのが不思議なくらいだが、これこそカミさんの目には触れさせたくない「生き恥」の記録であるような「未熟さ」のかたまりである。

作家の日記が全集に載っていたりするが、当人はあの世で赤面しているかもしれない。斉藤茂吉の老いらくの恋(不倫)の手紙など、読んでいてこちらが恥ずかしくなるほどだ。
早く消滅させるに越したことはないと思い、生徒の書いた登番日誌と一緒に、ところどころ読み返しながらちびちびと火にくべる。

高校時代の部活の日誌もあって、随分生意気な口をたたいている。
大学時代に毎日の支出を雑然と書きつけたノートなんかもあって、仕送りのやりくりに苦戦していた日々も記録されていた。
「生き恥」を感じる一方で、自分のことながら、こんな自分も40年前に存在したんだと、何だか不思議な思いもした。


そんな中で、どうしても捨てられなかったのが、手紙である。
押入れの日記類の段ボールの横に、もう一つ段ボールがあって、その中に手紙が詰まっていた。

学生時代に短歌をかじったことがあって、その関係でいただいたいくつもの歌誌への誘いの手紙。前田透氏(前田夕暮のご長男)からの温かい手紙や塚本邦雄氏からいただいた年賀状もあった。
「ああ俺は短歌をやっていたんだ」などとほとんど忘れかけていた昔の自分を思い出したりした。

また、卒業生やその親御さんからいただいた手紙。特に部活関係の生徒からの手紙には様々な思い出が、笑顔や泣き顔、練習の一場面一場面とともに去来してくる。

結婚前にやりとりしたカミさんからの手紙も残っている。
今は、メールやラインが通信手段の主役であって、高校生の世代では手紙など書きはしないだろうが、昔は家の固定電話か手紙でしか遠距離恋愛の通信手段はなかった。そう、カミさんとは、いわゆる遠距離恋愛というやつを5年間した後に結婚した。

遠距離と言えば学生時代に神戸の女性と4年間手紙のやりとりをしたことがあった。顔を合わせたのは1年に一回の数日間、4年間で延べ10日にもならないだろう。そんなことも思い出した。

そうしたものをそんなふうに見返していると、なかなか片付けが進まない。引っ越しの際によく経験することだが、どうにもならず、すべてを再び段ボールの箱に戻し、そのままにしておくことにした。


最も問題なのが本であり、頻繁に使うもの、読めないまま本棚の肥やしになっているもの、かつて読んでもう20年も手に取っていないもの、いろいろだが、一度自分で買った本はなかなか処分する気になれず増える一方になってしまう。

就職したころになけなしの金をはたいて無理をして買い集めた本も多い。本に囲まれていると落ち着いた気持ちになれるが、カミさんからは「地震であなたが本につぶされちゃいそうで心配」と普段から事あるごとに言われるし、とりあえず僕に関する一番の「荷物」は本なので、辞書や専門書以外は思い切って整理しようかと思うに至った。

捨ててしまうのは何だか釈然としないので、インターネットを検索すると、買い取り業者がいる。別に買い取りのお金に期待するわけではないが、少しでも自分の本が巡り巡って誰かの役に立てばそれに越したことはないと思い、段ボールにとりあえず5箱詰めて送ってみた。

僕の本は確かに古い。でも、貴重な全集本や、みすず書房の名著も混ぜた。それなりに身を切るような思いで本を選んで送ったのだった。

が、しかし、返信されてきた査定の金額を見て唖然とした。


・・なんとそれは「1円」だった。


恐らく、査定に値するのは、近刊本の、しかも実用書なのだろう。おおよそそういう予想はついた。僕も図書館に勤めていたころ、寄贈の依頼を受けたことがあったが、限られたスペースで個人の蔵書を無制限に受け入れるわけにもいかず、お断りをしていたし、インターネット上で東日本大震災のような被災地の図書館が寄贈を求めていても、それもやはり「役に立つ」本が優先されていた。

「役に立ちたい」と思う気持ちと「役に立たない」と思う気持ちにはズレがあることも承知している。

ただ、「0円」というならまだ、それはそれでそういうものかと思えたかもしれない。しかし、「1円」という金額提示には「本はいらないけど、1円欲しい?」みたいな感じなくてもいいのかもしれない悪意を感じ、何だか異様に腹立たしくなって、全部送り返してもらった。

「価値」というものは何だろうかと思った。

仕方なく、文庫本や古い小説の単行本の類は「ゴミ」として廃棄した。僕を「創ってくれた」本が「ゴミ」にしかならない現実は、僕が「ゴミ」でしかないような気にさせられて、何だかとても悲しかった。

思い出を片付けることは、かくも大変なことである。僕にとって大切なことは案外他人には全く無用なものでしかない。思い出は僕に属して初めて価値をもつものでしかない。それらは僕がぼくという肉体を失った瞬間に意味を消失して「ゴミ」になる。


そこで、カミさんに「僕のゴミを残すと君に迷惑になる」と言うと、カミさんは「大丈夫よ。今の世の中は、遺品整理業者という人がいて、みんな処分してくれるから」と言う。

そう、僕が消えると、捨てきれなかった思い出は業者という他者がみんな消し去ってくれる便利な世の中になっていたのだ。


■土竜のひとりごと:第177話

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