第141話:人が山に登る理由
僕がまだ学生の時、友人と飲んだくれて終電もなくなり、近くの後輩の下宿に転がり込もうとした夜のことだった。
近くといっても歩いて1時間以上もあったのだが、酔っ払っているから距離は気にならない。深夜、いい気持ちで歩いていると道端に大売り出しの大きな赤いノボリバタが立てかけてあった。見渡すが、近くに商店もない。
「こいつはいい」と僕はその赤いハタを担ぎながら、時々は振り回したりなどして気分良く歩いていたのであった。
すると、向こうから警察官が二人歩いて来て僕を見とがめ「何かね、そのハタは?」と質問してきた。
警官に職務質問されるということも初めてであり、しかも自分は大きな赤い大売り出しのハタを持って歩いている。
まずいという気持ちもあったが、意識の大半は酔ってどうでも良くなっているから、気がつくと素直に「これですか?大売り出しのハタです」と答えていた。
すると警官はそんなことは見れば分かると言いたげな顔で、今度は「何故、そんなものを持って歩いているのか?」と聞いてきたのである。
そう問われて、僕はハタと答に窮した。
変なことを答えてはマズイと思ったからではなく、きわめて純粋に自分がこんな夜中にひとりでハタをかついで歩いている理由が思い当たらなかったからである。
なぜ俺はハタを持って歩いているのか?
そう自分に問いかけても答えが返ってこない。
ハタを手に入れようとした?
いや違う。何となく持って歩いてみたかった?
そこにハタが落ちていたから?
いったい俺がハタを持っている理由は何だったか・・?
暫く茫然としていると、これ以上酔っぱらいを相手にしていても仕方がないと思ったのだろう、警官は「もとあったところに返してきなさい」と言い捨て、僕をそこに置き去りにして去って行ったのであった。
世の中には問われても答えられないことがたくさんある。
石はどうして石なのか?とか、
カミさんはどうしてうるさいのか?とか。
商売柄、僕は毎日のように答えられない問に接している。
「ラテン語における哲学と倫理の意味の違いについてお聞きしたいのですが」などと来られたときには、「それはあっちの先生に聞いた方が良いよ」とかわす。
授業に行くと休養を目論む生徒が「古典は必要か?」と問うてくる。無視して始めようとすると、「先生って何ですか?」と問われる。
勉強に行き詰まった生徒が「三角関数や化学のモルって何故存在するんですか?」と尋ねてくる。
「英英辞典を引き、そこに分からない単語があると、またその単語を英英辞典で引き、そこに分からない単語があるとまたそのことばを英英辞典で引かなければならない・・これはありですか?」
女生徒が「人はなぜ人を好きになるんでしょうか?」などと言って来て、なんだかどきどきして言葉に詰まってしまったこともあった。
人はなぜ恋をするのか?なぜ俺は俺なのか?生まれて死ぬ人間に意味があるのか?・・難しい。
ある日、息子に問われた。
「おやじはなんだ?」と。・・難問である。
そんな解答不能な問のひとつに実に見事に答えたのがジョージマロリーという登山家である。「なぜ山に登るのか?」と問われて、そこに山があるからさと答えた。あまりにも有名な話である。
この名言自体が明言として流布していないのは、ニーヨークタイムズの記者のインタビューに、Because, it is there. と答えたものだったかららしい。
ただ、この名言と言われる答も、確かに人間のやむにやまれぬ衝動を的確に表してはいるが、はっきりと問に対して答え得ているかというとそうでもない。むしろ、うまくかわして意表をついたところが、この名言の名言たるゆえんであるのかもしれない。
僕は山に登ることは、単純に美しいものを見たい衝動なのではないかと思っている。高いところに登れば、当然、視界は広くなる。自分の住んでいる街が、川や海が、さらに地球の湾曲が、一歩登るごとに開けていく。
そこで出合うのは日常にはない美しい風景である。
と同時に、遥かに見渡すことは、自分が生きている世界を俯瞰することであり、日々を暮らす小さな部分であることから離れ、全体に近づくことでもある。
その究極は宇宙から地球を見ることかもしれないが、自分を包む世界の全体像に近づき、その大きさや広がりや美しさを実感することで、僕らは、自分自身を全体として自分の中に回復することができる。それが山登りの魅力なのだと思う。
時に自分を俯瞰してみる。汗を流し、努力すれば世界は広くなり、今より美しい風景や新しい自分に必ず出合える。
そうした努力や生きることに対する信頼を、僕らは広々とした大きな視野に立つことで、自分の中に回復する必要がある。
恐らく、人はそのために努力する。
汗をかいて苦しみながら、今までとは違った、今より美しい「風景」に出合うために頑張るのである。
それ以外に努力の理由などいらない。
蛇足のようにもなるが、かつて聞いた話である。
中国宋代に蘇軾という詩人がいた。その詩、「登玲瓏山」の中に、脚力尽くる時、山更に好しという一節があるが、「もうこれ以上歩けないと思うほど力を尽くしたとき、眼前に広がる山はいっそう素晴らしい」という意味である。
力を尽くし切ったときが、最も美しい。
そして更に、この詩句には次の詩句が続いている。限りあるをもって窮まりをおうことなかれ。
人間には限りがあり、無限に美を追い続けることはできないー。
これは「がんばってたどりついたその場所でいい。いや、だからこそ、そこが美しい。」と読める。
努力とは、いたずらに果てもない重荷を自分に求めるものでもない。
自分が辿り着き得る最高の風景とは果たしてどんな風景なのだろうか。
それを見るために人は生きているのかもしれない。
答のないことを知りつつ、答のない問に向かって生きていかなければならない人間にとって、その「寂しさ」を乗り越えるために、あるいはまた、生きることの美しさやその信頼を再確認するために、ひたすら「山に登る」ことも大切ではないかと僕は考えてみた。
球体のちひさな凸である僕のぐるんぐるんと青い寂しさ
■土竜のひとりごと:第141話