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第81話:話し合うということ

■「12人の怒れる男」という映画があって、この話はある殺人事件に関わった陪審員たちのドラマである。
動機といい状況証拠といい、全てが逮捕された容疑者が犯人であることをほとんど疑い無く示していた。陪審員たちも「簡単な事件だ」ということで早速評決を行ったが、1人が有罪を保留した。
その理由は「有罪の可能性は高いかもしれないが、自分がここで有罪に票を入れると、それでこの人の罪が確定してしまうと思った」からだ。
人一人の人生を預かる判断をこんなに簡単に済ませてしまうことに対する疑問や同じ結論しか出ないにしても納得の行くまで議論をしたいという気持ちが、彼にそうさせたのだろう。
ところが、白紙の状態に戻って一つ一つの事柄を検証、議論を積み重ねて行くと、その容疑者は実は犯人ではなかったという事実が判明する。

民主主義における少数意見の尊重とか議論の大切さ等をしみじみと実感させる、今では古典的なお話である。


■話は変わるが、僕は就職してからしばらくの間、市民劇場という演劇を扱う団体にボランティアで参加していたことがあって、夜になると事務所に出掛けて行っては仕事をしていた。
集まる人は会社員、大工さん、教員、ペンキ屋さん、主婦など様々であったが、三々五々集まっては芝居の話をしたり、パンフや機関紙を作ったり、夜中の街をポスターを貼って歩いたり、時には酒を飲んだり、キャンプに行ったりと楽しく過ごさせてもらっていた。

僕は企画部という部署に所属していたが、2カ月に一度の例会に取り上げる作品を決め、芝居の資料を作り、観劇後に合評会を開き、それを受けて機関誌に劇評を書くというのが、大まかな一連の仕事だった。

どの芝居を例会の作品として採り上げるかは大切なことであり、僕も脚本を読んだり、あちこちと出掛けて行っては芝居を見たりしていたのだが、仕組みとしては候補に挙げられた作品に対して会員にアンケートを取り、それをもとに各サークルの代表者会議の話し合いで決定するというやり方をしていた。

そんな仕事をし出した最初のころ、単純にアンケートの結果の多い順に例会作品に採りあげれば良いと考えていた僕らに運営委員長が反対した。

数は確かに会員の意志の反映ではあるけれど、それが全てではない。有名俳優が出ない作品でも話題作でなくても、いい作品はたくさんある。楽しいものだけでなく、人生や社会について問いかけをしているような作品も例会の作品に混ぜて紹介したい。有名なプロデュースだけでなく、小さくても頑張っている劇団も応援したい。そういうことまで考え、資料を整えた上で話し合って決めるのが僕らの活動の基本だ。数で判断するなら話し合いは要らない

言われてみれば確かにその通りである。運営委員長は小野さんと言ったが、東北から集団就職で静岡へ、以来、仕事をする中で芝居と出会い、ずっと食うや食わずの生活の中で市民劇場を支えて来た。
穏やかで口数も少ない人だったが、はっきりとした活動理念を持ち、それを焦らず、集まっている人を大切にしながら現実のものにしようとしていた。
そういう人柄、情熱に惹かれたのは勿論、ある意味では単純な、誰もが理屈としては分かっているのにやろうとしはしないことが、ここでは自然にみんなの手で行われていることが新鮮で、11頃に帰宅して、それから2時まで翌日の授業の準備をするという結構大変な日々だったが、及ばずながら楽しく充実した仕事をさせてもらった。


■さて再び話は変わるが、僕は今までに5年間生徒会の担当をさせてもらっている。何かを創る可能性のあるこの仕事が僕は好きである。
だからメンバーにも最初に必ず「行事も日常会務もたくさんある。でもそれは誰にでも出来る。君達は学校を創るために役員になったはずであり、君達にしかやれない何かをやらなければ君達が役員になった意味はない」と言う。

最初は夢を語る。校則の見直しをやりたい、学校祭をもっと楽しいものにしたい、ボランティア活動を盛んにしたい、先生の手から離れたい、いろんな思いが語られる。
その中からいくつかをピックアップして活動の中心に据える。それから代議委員会にかける原案を作成する。原案が代議委員会を通り職員会議で認められれば夢は実現するわけだ。

しかし、そんなにうまくは行かない。一つ案を立てれば職員からクレームがつく。案を修正すると代議委員会で「結局執行部は教師の手先ではないか」と責められ、悔しさに涙する一場もある。それでも投げ出さずに振り出しに戻って案を練り直す。

議論を繰り返して行く中で彼らはいろんなことに気付いて行く。自分達が勉強不足であったこと、夢と現実の違い、本当の敵は教師ではなく一般生徒の無自覚にあること、自由と自分勝手の違い、自治とは自分達で自分達が管理できることだということ等々。苦しみながら彼らは一歩一歩成長していく。

ただ一般生徒との溝はその分深まるといってもいい。学校祭の半年前に実行委員会が有志のメンバーで組織される。メンバーは一般生徒からの公募なので考え方に大きな差がある。とにかくドンチャン騒ぎだ、バンドだ、前夜祭だ、美人コンテストだ、カラオケだと気勢を上げる。

執行部のメンバーは前回の学校祭の反省アンケートを集約し、それに基づいた流れを半年かけて模索して来ているのであって、単なるドンチャン騒ぎであってはならないことを知っている。

溝の深さを認識して、その溝を埋める話し合いが始まる。合宿もした。過去の学校祭の流れを学び、自分達がどの位置に立っているかを考える。生徒、職員、係役員のそれぞれの反省を提示し、多様な意見のあることを知る。学校祭が祭と文化のバランスの上に立っていることを理解してもらい、生徒会の役割として、基本組織であるクラスの話し合いや執行機関でありながらうまく機能していない委員会などの活動を学校祭を起爆剤として活性化させて行くことの必要性も説く。
全てを完全に納得してもらうことは難しいが、そうやって1、2カ月もかかってようやく同じ土俵の上で何とか話し合いが出来るようになる。それから原案作りの討議が始まるのである。

ある時、「楽しさって何だろう」という議論になったことがあった。
「中学の時はそれなりに楽しかった」と誰かが言う。
「何故?」
「何故だろう。体育祭なんかでもクラスでまとまって練習したよね。それが楽しかったような気がする」
「そうかもしれない。高校の文化祭は実行委員でもしてないと当日限りで何かつまらない」と別の生徒が言う。
しばらく沈黙があって、ある生徒がふと「祭の楽しさは祭が来る前にあるんじゃないか」と言い出す。
「祭の当日もあれやこれや企画に参加するのもおもしろいかもしれないけれど、祭が来るまでの何かウキウキした感じや、自分が祭のために何かを創っているという感じが祭の楽しさなんじゃないか」と言う。
「そう、ただ授業がない遊びの日じゃ、結局“お客さん”でつまらないんだ。何か自分が参加しているとか自分が支えているって感覚が大事だよ」
「そうすると準備段階でどれだけの生徒を取り込めるかが成功の鍵になるね」
「充実感は自分で動かないと得られない」
「じゃ、そういう方向で企画を検討しよう」ということになる。

大人から見れば、幼い議論なのかもしれないが、“ドンチャン騒ぎ”から確実に脱皮したメンバーの姿がそこに見え、自分たちでそこに辿り着いた姿に、僕は貴重な基本を見たように思われた。

僕らは正解のない不確かな状況を生きている。そこで必要なのは、互いに意見を述べ合い、正しさを模索することだろうと思う。議論し、模索する姿勢の中にだけ正しさがある。
マニュアルや上意下達の悪習、あるいは無関心の悪癖から脱しなければならない。自分達で創る、それが“楽しさ”であろう。


■土竜のひとりごと:第81話

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