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第289話:文化が置き去りにされる

■もう随分前のことになるが、カミさんと上野の本牧亭に寄席を聞きに行った。その時、寄席の演目ではないが、指揮者の岩城宏之氏がある国の音楽堂の話をしていた。

歴史的な音楽堂が風雪に耐え得ず傾きかけ、その国の政府が諸国に援助を求めた。欧米諸国は相当の額を支出したが、援助を求められた日本政府はこれに支援を差し伸べず、仕方なくこの国の政府は日本の民間企業に援助を求めたが呼びかけに答えてくれる企業はなかった。
しかし一方で、その国への日本企業の進出は目覚ましく、空港を降りて首都に向かう道路には日本企業の大きな看板が目白押しに並んでいる。
ざっとの内容であるが、「金だけではなくもっと文化を大切にして欲しいと思います」というのが岩城さんのこの時の締めくくりの言葉だった。

いまさら特に新しい話でもないと思われるかもしれないが、そう思えてしまうところが大きな問題なのかもしれない。

文化が置き去りにされる。
それが日本の資本主義社会の常識なのかもしれない。


■身近に実感できる範囲の例で恐縮だが、例えば教育が置き去りにされている。教育機関への公的支出の割合は低く、逆に家計の教育支出は多い。大学では研究費が欠乏し、企業との連携に活路を見出す。

経済協力開発機構(OECD)は3日、国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合(2019年時点)を発表し、日本は2.8%と、データのある加盟37か国中36位だった。前年の同率最下位からは改善したが、依然として低い状況が続く。
また、大学などの高等教育を受ける学生の私費負担の割合は、日本は67%と、OECD平均の31%を大きく上回った。20年時点の高等教育を受ける学生の私立教育機関に在籍する割合も79%と、OECD平均(17%)の4倍以上だった。の初等から高等教育段階での一般政府総支出に占める公財政教育支出の割合は 7.8%であり、これは OECD 平均を下回った。高等教育段階における私費負担の割合は 67%に達し、OECD 平均 31%を上回った。

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高校でも財政は逼迫。節約に節約を重ね、教材や部活動なども私費に頼っている状況である。ICTへ舵を切るということで、何年か前にタブレットを生徒全員に持たせるという通達が突然来たが、全て自己負担での購入指示だった。買えない家庭もある。少ない教員が多くの仕事を抱えていても増員はない。


■2007年前後に図書館に4年間勤務したことがあった。行政改革の波の中で指定管理制度が検討、導入され始めていた。呑気な公共機関にとって企業のノウハウが導入されることはいい刺激にもなろうが、利潤追求を目的とする企業と文化を提供するサービスとのミスマッチに図書館は揺れていた。指定管理の中で非正規雇用の職員が増えることも懸念された。

図書館、使う?
図書館って役に立つの?

そういう声に図書館側も策を考え「ビジネス支援」に乗り出していた。図書館には利用者からの様々な質問を受け図書館資料を使って回答するレファレンスというサービスがあったが、それを拡張し、例えば起業を考えている人に、ノウハウや、各種統計、周辺の土地、地域の情報などのさまざまな資料を紹介したり、商工会議所と連絡を取ったりして応援していくという主旨のものだった。

僕も国会図書館での何泊かの研修に参加したりもした。確かに利用者の求めに応じてサービスの幅を広げて行くことは大事なことだが、ただそれがビジネスに焦点を当てた形で図書館の意義を周知し、生き残りの活路を見出そうとする在り方に、僕は図書館までが市場原理の波に飲み込まれて行くような違和感があって、正直、うんざりもしたことを覚えている。


■丸山眞男に「『である』ことと『する』こと」という文章があって高校2年生の教科書び採られていることが多い。
近代化の流れの中で、近代化されるべき社会経済システムの中に旧態依然とした日本的な考え方が残り、その一方で近代化されるべきでない領域にまで近代的価値が浸潤している、そうした「価値の倒錯」にあると指摘している。

例えば、前者なら、合理的であるべき会社の中に上役との付き合いが強制される、後者なら、家族や文化、芸術などの領域に効率や数値が持ち込まれるといったことがこれに該当する。
この文章は僕らが高校時代にすでに国語の教科書に載せられていた。一時、教科書から消えたが、近年また掲載されるようになった。丸山が問題にしたのは近代化であったが、昨今のグローバル化の流れがこれと全く同じ「価値の倒錯」を引き起こしているという認識があるのだろう。

学校はもっぱら前者的な村社会のようであったが、近年では数値目標ということが盛んに言われ、その目標に対して評価が行われる。が、教育の質を数値で計れるものでもない。有名大学に何人入ったとか、そういうことが先走りしていけば本質が見失われてしまう。


■もう30年以上前、「国際化」という言葉が流行り、それには英語が話せなくてはいけないみたいな潮流があった。そんな中で「国際化に最も必要なことは自分が自分自身についてよく知ることだ」と小論文で書いて来た生徒がいた。

他人と接するには明確な自分を持っていなければならない。そうでなければ他人に流されて自分を見失うことになりかねないし、人と人が本当の意味で対等に付き合うことはできない。同じように日本人も日本文化の上に立って日本人とは何かについて考えなければ、外国の人を対等の人間として理解することはできないし、かえって外国の文化に流されて日本がどこかになくなってしまう。外国化することが国際化ではない、そう彼女は書いていた。

その通りだと思う。それには文化が大切にされなければならない。文化が大切にされれば、そうしたアイデンティティを求める動きがナショナリズムにつながることもないだろう。

高校生の方がよくわかっている。


■土竜のひとりごと:第289話

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