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第305話:思いの理由
意味不明なつぶやきかもしれない。
小説を読む授業では「心理」を読むことが中心になる。
「心理」にはそれが起こる「理由」があり、その「心理」によって次の「行動」が呼び起こされる。なので、「理由」があって「心理」は生まれ、その「心理」に従って「行動」が起こされるという一連の流れを、微細な表現に作者が隠した意図を読み取りながらつかまえていくということになる。
そんな解析的な読み方はつまらないのかもしれないが、人が起こす「行動」にはそういう流れがある。
「事実は小説よりも奇なり」と言うが、現実の生活でもそれは多分変わらない。
ただ日常的には「心理」はむしろ「思い」と言った方がいいのかもしれない。
「思い」があって人は動く。
ただ、「思い」は複雑である。
どんな社会でも同じと思うが、学校には人間がたくさんいるので、さまざまな「思い」に溢れ、「思い」は交錯している。
教師は進学のため、文武の活動で結果を得るための「行動」を起こ「させる」ために「思い」に言及する。迫る?
「思い」を育てることは難しい。
教員自身に「思い」があるかどうかも反省しなければならない。使役形であれば尚更である。
たぶん、キーワードは「ことば」ではなく、「時間」や「関係」の共有ということなのだろう。それは口で言うほど簡単なことではないが。
それでも「思い」を伝え、育てることはできるような気がする。
ただ、最も難しいのは、「思い」の前提にある、「思い」を起こさせる「理由」ではないかと最近思う。
明確に現象している理由であればそれは「見える」が、人間はそんなに単純に生きているわけではない。
人がそれぞれ何かを思う「理由」は、人としてのルーツに関わる部分、その人の内部に潜在して、その人を覆っている何かのような気がする。
「三つ子の魂百までも」もそうかもしれない。
「理由なき反抗」もそうかもしれない。
「ことば」や「理解」や「共有」を超えた、それはルーツとしての環境や経験によって作られた「人間」や「生まれ」にあると言っていいかもしれない。もっと言えば風土が作り上げた「身体」と言えるかもしれない。
そこは誰にも手の届かない領域のような気がする。
わかりあうことは難しい。
ただ、近年よく言われることだが、逆説的に「わかりあうことは難しい」という認識自体が「わかりあう」ための大切な認識だという考え方はよくわかる。
「所詮は分かり合えない」「違う人間だ」と思えば、相手を違う人間として認めるしかなく、「自分に同化させようとする」無益を排除できる。
「思い」は「理由」に支えられていると書いたが。そうすると「思い」は「人間」や「身体」といった、その人のベースに支えられていると言った方がいいかもしれない。
「思い」は「行為」を起こす。でも「理由」を介さない優しさは最も信用のおける優しさであって、それはむしろ「身体」に由来している、そんな気がする。
「身体」や「人間」の支えのない、「お金」や「力」に支えられた「思い」は、「思い」ではなく「思惑」に過ぎない。
最近の世情を見ていてそんなことを思う。