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▲親友の死に→29話
克彦が死んだ日
僕は妻と芝居を見に出掛けた
訃報を受け取った時泣きじゃくっていた妻は
芝居に行く道の車の中では
明るく
芝居の粗筋など僕に聞かせたりした
妻が僕の気持ちをどう考えているのか
僕にはよく解らなかったが
話題に克彦をのせない妻にすべてをまかせたまま
芝居を観てそれなりに笑い
それなりに拍手などして
帰る車の中でも
流行の歌など聞きながら
お互い
克彦のことには
一言も触れずにしまった
妻が
まだ一度しか会ったことのない僕の親友の死に
泣いていたことを不思議に思い
死というものが
こんなにも取り留めのないものとして
素通りしてゆこうとしていることに驚いている
悲しみをどう悲しんでよいか僕は知らず
何もすることがない心もとなさを
ただ僕は机の前に座り
幾たびも胸の内に転がし
幾度も心に思っていたのである
春になりかかろうとする
穏やかな夜だった
実感しようない寂しさだけがあって
静かに克彦が死んだ日の一日が
終わろうとしていた
何があったとも思われない
それは平凡な春の一日の終わりだった
そして僕は風呂に入り
克彦が死んだ日には
そうしなければならないかのように
深く深く湯に沈んだのだった