第61話:明日がある奇跡:東日本大震災
東日本大震災が起こった時、僕は学校の体育館で生徒の集会に立ち会っていた。突如、大きな横揺れが起こり、収まったかと思うとまた始まる。それを何度も繰り返した。
生徒を体育館の中央に寄せ駐車場に出ると、地震の揺れが来るたびに、自動車がゆらゆらと大きく横揺れした。まるで車が躍っているような異様な光景だった。
静岡でさえそうだったのだから、東北は大変だっただろう。でも発生当時、これだけの大きな被害が起こっていようとは全く推測できなかった。
静岡でもその日、交通機関が一部途絶え、帰れない生徒に牛丼を買ってきて食べさせ、その生徒の帰宅の目途がついてから、僕は帰宅した。途中食べ物を仕入れようかとコンビニに寄ったが、ほとんどの棚には食料品はなかった。
しばらくの間、テレビはニュース以外はACジャパンの広告が流れるだけの日々が続いた。3月中、御殿場線が運行を停止したため、学校は臨時バスを出して対応した。計画停電という言葉も、その夏を中心に踊った。
政府は4月1日の持ち回り閣議で、この地震がもたらした災害を東日本大震災と呼ぶことを決定。名前などどうでもいいことに違いないが、この震災は多くのことを僕らに教えた。
何でも起こり得るということ。
かつてない大災害だった。
マグ二チュード9.0という地震。
そして多くの人を飲み込んだ津波。
さらにいつ解決するとも全く見当もつかない原発の事故。
まさに三重苦の大災害である。地震だけなら多くの人の命が救えただろう。津波がなければ町や村はこれほど壊滅的な打撃を受けることはなかったに違いない。原発事故がなければ、故郷を追われることもなかっただろう。
被害が徐々に明らかになる中で、
・今日は約1000人の人がある海岸で収容された
・約400人の遺体が確認された
・ある高校では約半数の生徒の行方が分かっていない
・死者は万単位になる予測
そうした「概数でしか示せない報道」が、この震災の悲惨さを伝えていた。震災後一か月近くになっても、行方不明者の数が明確には把握できなかった。
一人の人の命は大切な問題であるのに、それが「約」としか確認できない状況。
原発事故は放射線漏れの危険から、東北の人々の生活を圧迫し、人体、環境への悪影響が懸念された。風評被害、言われなき中傷、いじめ問題も起こった。教えている生徒の中には中学時代に福島から転校してきた生徒もいたが、そのことを自ら語ることはなかった。
未曾有の災害。「想定外」ということばが使われるが、「想定外」という言葉自体が、何でも「想定可能」であると思っていた科学や人間の傲慢さを表していると近年ではよく言われる。自然は「想定」できない畏怖であることを認識しなければならない。
未曾有の事態に政治も混乱した。後手を踏み続け、あるいは判断を誤った。
コロナへの対応もそうだった。自らの危機管理の責任を医療や自治体や一般の人の努力に甘えているかのようだった。暴動や略奪が行われてもおかしくない中で、忍耐し努力している人たちの、どんな状況にあっても、己を失わない我慢強さがかえって印象に残った。
批判ばかりしてはいられない。いつ何が起こってもおかしくない不安定な「生」の上に立って僕らは生きている。そういう不安定な「生」の上に立って、僕らは「命がある」ということ、自分に「明日という日がある」ということを考えてみなければならない。
明日があるのは奇跡かもしれない。
敗戦の日を前に、8月9日のニュースで、長崎の被爆者の方が「明日が平穏に送れることはむしろ奇跡的なものかもしれない」という趣旨の言葉をおっしゃっていたのを聞いた。
明日がある奇跡。
それは突然に命が奪われる経験を生きた人出なければわからない実感なのかもしれない。
東北大学に進学した卒業生が「東日本大震災の語り継ぎの活動を始めたので、ぜひ母校でも語りたいということで、過日、学校を訪れて講演をした。
語り継ぎとは語り部の方が自分の経験を語るのとは違い、「語り部」の方たちが語った話を広く「語り継ぐ」活動であるということだ。
昼休みを利用した30分程度の短い話だったが、心を打つ話だった。彼女は淡々と「語り部」の方から聞いた話を「語り継ぎ」ながら、「何気ない日々を大切に」という自分の感想でまとめた。
やはり「明日があることは奇跡かもしれない」という言葉を語っていた。
毎日の日常の中で、それをいつも意識することは難しいかもしれないが、命があるということが、この人とのつながっていられることが、今日という瞬間に許された奇跡だと考えられれば、また今日という日の意味が変わってくるのかもしないと改めて考えた。
(土竜のひとりごと:第61話)