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ものまねと分野違いの仕事について

デザインとかなんでも上手い人の真似をすることは本当に大切。というか正規の教育などないなかで生き延びるにはそれがいちばんの近道だ。
それを知るまでに時間がかかったなと思う。
そして、依頼された以上の仕事をしないと、人は納得しない、ということ。想像をこえることができて初めてプロといえるのかなって。そこそこだと他にいくらでもある。
まあ、そんなことをおもいながらドクターXを観ていた。
フリーランスというのはこういうことだな。
どっちにしても、デザインというものもなんでもジャンルや分野が違ったら馴染むまでは時間がかかる。世界観が変わるとそんな簡単には馴染めない。新劇の舞台に立ち続けている人が、小劇場の舞台に立つことになったら戸惑うし、映像作品になるとまた違う。それでも納得させることができなければ仕事は簡単になくなる。プレイヤーとはそういう残酷でシビアな世界で生き抜いている。
だから、予習が必要だ。翻訳の人もそうだけど、知らない業界のことを知らないままで翻訳することはできない。外国語の世界と同じで、言語が違う。そのことになかなか気づける人は少ない。そして、そこに帳尻をあわせようとするひとも少ない。たいてい、希望のものが思い通りのものが仕上がってこなければ、切り捨ててそれで終わりだなって思う。

私がのんびりやだからという原因もあるけど、1度目と2度目、ずっと意外性を出し続けないといけないというのもなかなかになかなかの難易度だなって思う。できる人は影でむちゃくちゃ努力している。常に過去の自分を乗り越える。

ちょっと追加でチクッと来たことができたので記録しておく。
誰かを褒め称えるのに、他の人と比較することって全く無意味だなって思った。舞台において、プロの人よりアマチュアとか素人の立ち振る舞いがふさわしいことがあったとする。しかし、だからといってプロの人よりアマチュアの人の方が優れている、ということにはならないし、比較するものではない。それは、ものを作る人や絵を書く人も同じだ。技術の問題ではなく、存在の問題だ。
現場やシーンによってどちらがふさわしいか、適切かどうかというのを決めることはできる。でも、優劣をつけるものではないし、ただの趣味趣向の域を超えることはないことを自覚して欲しい。そうじゃないのにプロとして成立させるなんてことを口にしないでもらいたいな。言葉に対する精密さ、気配りができていることは、場をつくるひとにとって必要不可欠なスキルだ。行こうかな、と思っていたけど、この一言で行きたくなくなった。残念だ。


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chirico kaworu
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