chirico kaworu
ここにあるのはお話です。あくまでもフィクション。
それはひとそれぞれで、無表情でもワクワクしているひとはいる。 継続が趣味な人の本をAudibleで聞き流しながら、朝のルーティンをつくってみた。 朝起きて水を飲んで外に出て、5分間散歩する。 5分間だったら雨が降っても歩ける。 散歩の間に目に留まったものを写真で撮る。 帰ってきたら顔を洗って布団を畳む。 5分部屋を片付けて、ストレッチをする。 ストレッチがおわったら、写真にとっていたものをXでポストする。 こんな感じ。 いまのところ続けられている。 今朝らじるらじるで、ラジ
audible の無料体験で聴いている継続の毎日を記録しはじめている。 2日目だけど、これって演劇の練習しているようなものだと気づく。 毎日の動線づくり。人に伝えたり言語化できるものは点だ。 だけど点と点を結ぶのは線だ。 線を描くことが演技をするってことなのじゃないのかとさえ思ってきた。 線を幾度も幾度も描く、そのうち線が決まってくる。
普段無意識にやっている行動を書き留めてみることにした。 人はすぐに忘れる。 だから記録しておくこと。 忘れないためにというより、意識して行動できるようになるために。 無意識に行動を垂れ流さないことは、自分を他人のように扱う第一歩でもある。 自分の行動を観察する。
ほかのひとにとってゴールに近かった。 ものすごく当たり前なのだけど伝わっていないことの一つに、演劇の創作は人と人が集まってから始まる、と言うこと。 ひとりの段階で演劇はつくることができない。 美術館やライブハウス、オペラハウス、音楽堂と異なるのはそこだ。 だから、ジャンル違いのひとと作品を創作する時にぽかんとされる。 だってそうだよ、彼らの中でもう料理は出来上がっていて、お皿を選んで並び替えたり、味付けして終わりなのだから。 だけどね演劇は違ってたんだ。キッチンに素材を集めて
今日は毛糸をほぐして豆腐ドーナツをつくった。 手をうごかすことは生きる力を取り戻すことができる行為のひとつだ。 普段はパン屋さんにパンをつくってもらったり、食堂で定食をつくってもらってその対価としてお金を支払っている。 だけど、そのひとつひとつを行為として自分の体をつかうことは、人としての力を実感できる。 つくることはいきることだったはずなのに、労働することが対価を得てそれと引き換えに人の労働に報いることで経済は回っている。 経済は社会を維持するために大切だけど、生きる実感は
仲間同士でチケットを売る文化がしっくりこなかったんだと気づいた。 誰にみてもらいたいかということを明確に、誰に知ってもらいたいのか、ターゲットを定めて動きたい。 凡人には凡人なりの居場所がある。 凡人も続けられたらそれは才能のひとつ。しがみつくのではなく、かろやかに、飛びまわろう。
今日の出来事について。 おしごと、おしごと、MTG、そして事務処理。 日々のいろいろを記録していこうと思う。 今朝は朝の散歩にでかけられた。もう寒くない、散歩に良い季節。 桜に、つつじも咲いていた。 最近カフカがきになるので検索したら、海辺のカフカばかりでてくる。カフカもマグリットと同じく、働きながら作家活動をした人だと知る。 シュールと不条理はやっぱり好き、というか、社会はシュールで不条理なのに物語や舞台上だけ整理されているのもどうかとおもってきた。 そして、ナラティブが
もしおつきさまがなかったら、多くの文学作品は生まれていない。 おつきさまがなかったら、夜は漆黒の闇になる。 もしおつきさまがなかったら、地球はぐるぐる回りすぎてしまう 人がすめない星になる 太陽はとても輝いて地球をきらきらと輝かせてくれる なくなったらそりゃまあ大変 だけど月がなくなってもおなじこと 月と太陽によってささえられている地球 それとおんなじことが身の回りにもたくさんある どちらも大切なのに どちらかだけをもてはやしたり だからバランスをとるために
生活していると否応なく情報がやってくる。 国会図書館とかはいままで出版された書籍がすべて保存されているそうだけど、それ以上に多くの情報がこの画面にはあふれかえっている。 書籍となるための文章は選別されている。だけど、この画面に打ち出されている文字に規制もルールも存在しない無法地帯だ。情報になっていない言葉の羅列。おしゃべりと独白。 ルールがあるとすれば、その文章を発信する人の倫理観だ。 ここまで文章にして、ふと首まで土に埋められて、ひたすらしゃべり続ける人の姿が浮かんだ。ベ
思考を変えるために書き出していく。 身体を動かすことにも近いけど、まず、アウトプットに慣れること。 知識を得るためのインプットと、アウトプットのためのインプットは全くと言っていいほど違う。 宇多田ヒカルの新曲が歌いたいなと思って歌ってみる。そうするとまったく歌えないことに気づく。これが一歩目。 やると聞くとは大違い、ということに気づかないと始まらない。 一方的に受け取るだけの状態は、感覚を磨いたり、イメージをつかむことには役立つけど、具体的に役立つことはない。あくまでも、自
朝、目が覚めたらゆっくりしてしまったことに気づいた。 家の中は作業が進まないので、とにかく家を出ることにしている。 別居中の猫の餌をあげて室内で遊ばせておいて、近くの作業スペースに向かう。3時間くらい集中して一つ作業を終わらせることができた。気持ちいい。そのあと、もう一つ、次の企画のプランを書き出してまとめた。 途中まででちょっとタイムアップしてしまったけど、なんとなく輪郭が掴めるくらいまでは行けたのでよかった。 そこから猫の世話をしにまた戻って、帰り道にドラッグストアで母の
人がすきなものについて語っているときは面白い。 だけど、自分が好きなものについて語るのはそんなに好きじゃない。 好きなことをはなすときに楽しい雰囲気にならないからだ。 ほんとにすきなもののことを語る時って、そんなに面白くないんじゃないのかもしれない。 猫が好きだとか、カレーがすきだとか、そういうものを語るのは楽しい。 だけど、ほんとにすきなものって、理由もなく好きで、むしろどうしようもないところが好きだったりする。 すきなものは、わたしだけの宝箱の中に入れておきたい。 べつに
脱力はすべてにまさると感じている。 たいてい緊張していたり、余裕がなくなると周囲の人に手間を取らせてしまう。 そういうときって、目いっぱいバケツのふちまで水を入れてこぼさないように運んでいるようなものだ。そんな状態の人に声をかけることなどできやしない。 バケツを大きくすることができないなら、水を捨てればいい。 もったいないじゃなくて、あきらめる。からっぽになったらもう一度運べばいいし、減った分だけ注ぎなおせばいい。 前向きなあきらめとは、自分に余裕をもたせることだ。 そう
やりたいことばかりやって、といわれつづけてきて、そうじゃないとおもいながらどうやったらその誤解がとけるんだろうとおもってきたけど、やっぱりやりたいことばかりやってきたんだね、と思うようになった。だけど、ほんとにやりたいことはやってない。 そう考えるとほんとにやりたいことというのは、こうありたい理想の状態を実現することかもしれない。 だけどそれはとても抽象的で、アウトプットできる状態になっていない。 こうありたい理想の状況を書き出してみるという決意表明。 まだここには書けないな
お正月も近い冬のある日、このまちで流れる唯一の川に水鳥が4、5羽浮かんでいた。くだっていくとすぐにせき止められているこの川は小学校の校歌では緑輝く、とうたわれているけど、もう半世紀以上前から生活用水の影響で水底は全く見えない。 スマートフォンを取り出して鳥たちをカメラに収めようとした。スマートフォン?カメラ?電話のマイムがまだ受話器をかたちどるように、言葉が現実に追いついていないことがあることに気づく。言葉だけでもまだカメラという四角く黒い箱から覗くレンズ越しのファインダー
全く前情報なしで観にいった。 日本人には描けない、ファンタジーなTOKYO。 観ている最中に、岩井俊二監督のスワロウテイルをおもいだした。 仮想の美しい日本。 無口な平山の動作だけで演じる役所広司は、日本人だけど、日本人ではない感覚を演じている。 例えば、日本人の感覚で言うと、別れのシーンにハグはしない。 これが日本人の監督だったりすると、こうは描けないのだけど、フィクションのTOKYOで、存在しない平山を演じるから成立する映画だ。 物語とか、映像とか、作品というものは、ド