アンナチュラルなしあわせ
あたりまえだけどおいかけているうちは一番になれない。一番じゃない人がおいかけるってことにもなる。人がつくりあげたものを羨ましがったり、憧れていたりしていることにたいしてふがいなさとなさけなさがこみ上げる。
自己肯定感の低い人が一番困ることが何かといえば、自己肯定感が高い人が理解できないことだ。別次元の人物であって、私には無理だったり、なんでそんなに意味なく肯定感が保てたりするんだろうとおもう。信じられないし、そこに憧れることもない。例えば芸能人になれないと思っているような感じかもしれない。そもそもなれないもので、最初から諦めているということだ。過去にしてしまったことをないものにはできないように、手に入らないものに対しての距離感はただの傍観者だ。当事者にはなれない、という諦めであったりする。その距離感がつねに私の中にはある。幸せの青い鳥は誰かの籠の中にはいる。でも私の籠の中にはいることはけっしてなくて、ほかの籠の中にいるものだと信じていたし、わたしの籠の中に青い鳥がいることはない。
最初から手に入らないものに対して、どう行動をすればいいのかと思いを巡らす。ないなら作るか探すか、また別の方法を考える。チルチルとミチルは手元にいたけど気づかなかっただけ、確かにそうなのだと思う。幸せにとらわれているのだと思う。幸せにならなきゃ、っていう強迫観念であったりもする。そんなに幸せになる必要ってあるのかしら。幸せへの欲望が人との差異を生み出してしまう。
だからこそ幸せは追いかけるものでもつかみとるものでもなくそこにあるもの。だけど、そこにないもの、みつけられないひとはどうすればいい?みずからの幸せは自分の手で作り出すものだとしたら、誰かのものや何かの手を借りずに幸せを手に入れることはできない。手に入れると言うことは何かを失うことで、失わずに手に入れることはできない。なにも奪わずに手に入れたりうみだすことは自然に反している。アンナチュラル。アンナチュラルさが人であると言うこと。ひとりであるということはとまどうほどに幸せであるための言い訳を探してしまう。