弥生3月ダブル卒業
3月。
小学校卒業と保育園卒業という立て続けのイベントが終わりました。
小学校6年生の生活は、彼にとっても私にとっても激動の一年でした(笑
コロナが明けてから登校しぶりが始まり、遅れてでも行って、行って仕舞えばケロッとして元気に帰ってくるという日々。
「不登校を選択したのはすごいこと。ただ考えなしに学校にだらだら行くより良い」と言い続けていた夫。
担任の先生と私は「学校に行けるのであれば行かせてあげたい」という思いがあった。
いじめがあったわけじゃないし、学力が低いわけでもなかったからだ。
先生と相談して、朝のモーニングコールや明日の声かけ(息子から先生に頼んだことも多々)でなんとか繋いでいた糸も、その後の度重なる自粛で9月10月になる頃には切れかけ始め。
警察呼ぶ事件になって「無理して学校に行かせた歪みだ」という声に私もイライラして「そんなにいうなら自分が理想とする教育やってみてよ。先生との連絡は私じゃなくてそっちでやって」と全部放棄した11月、12月。
家にいて何をしてるかっていうと、ひたすらパソコン、ゲーム、家族を無視して自分のやりたいことだけ押し付ける、相手の迷惑は考えない。
そのうち、あまりに自分のことしか考えないのでパソコンは没収。昔の3Dなどで気を紛らわし自室で布団に包まる日々。
自分のやりたいことだけやる、は今もてはやされているけど解釈を間違うと恐ろしいことになる。
それは相手にとってもいいことかどうかが抜けてしまうと、ただただ迷惑でしかない。
手放したと思った息子のことも、結局ブーメランのように戻ってきて「お母さんに認めてもらいたいんだ」「愛されたいんだよ」という言葉になる。
妊娠して出産、子育てに入り10年以上、それこそ血肉を分けて自分の時間も体も犠牲にしながら正解のない世界を手探りで進んできたのに、結局突かれるのはそこなんだ。
父親は逃げ道がある。母親は逃げ道がない。
どうして何もなく褒められる時は2人(子育てに多く関わると父親の方が言われやすい)なのに、何かあって咎められる時は母親にだけ向けられるんだろう。
どっちにしろ言われるならもう、自分の子育てに自信を持って自分が先導して行くしかない。
ちょうどその頃から、息子の方から「パソコンやりたい」という言葉が出るようになり、いきけんの方で相談しながら構想として温めていた「ホームバイトプロジェクト」を実行することにした。
家庭内仮想通貨である。
例えば、掃除機をかけると200バイト。
パソコンレンタルは一日200円(バイト)というように、自分がやりたいことをするために自分ができることで人の役に立つということをスタートした。
それが2月。
少しずつ、意識が外に向いてきた。
そこから、先生の声かけもあり、みんなが帰った18時ごろにちょっと学校に行く、ができるようになった。
3月になってからは12時くらいに昼だけ食べて帰る日も出てきたりして、最後の卒業式は前日制服のまま寝るという自分なりに行ける努力もして、朝から参加できた。
式中はみんなと離れ、幕の外からという形ではあったけど最後は校長先生から直接渡してもらえた。集合写真にも入れた。
この一年を振り返ると、不登校がいいとも言えないし、悪いとも言えないと思う。
学校に行く目的を見失ったから学校に行かない。は、じゃあ何がやりたいの?が見えないと本人も引きこもるしかない。
結局、どこにも行き場がなくなるだけ。
次男みたいに学校に行く目的を「友達と遊ぶこと」に焦点を当ててる子もいるし、自分なりに折り合いをつけて頑張っている子もいる中で、その境目はなんだろうなと考えたけどやっぱり「幼少期の体験」って大事なのかもしれない。
それは学校教育うんぬんの前に、家庭保育での体験がベースになってくると思う。
いい体験、嫌な体験、それを乗り越えた経験。それがある子は、心がしなやかだ。
私は家庭を安全基地にしたくてそれを作り続けてきたけど、その理想の基準点は自分の育ってきた家庭環境である。
私は共働きでおばあちゃんが主にみてくれていて、いいも悪いも過剰に反応することなく、ただその存在は常に愛されていたと今でも感じる。
三男の卒園式はキリスト系なので聖書の言葉も使われていたのだけど、そこでまさに言われていたこと。
「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」
やりたいことなんて、大人だってわからない人がいるのにどうして10歳そこそこの子どもがたどり着けるだろうか。
三男も4月から小学校に進む。
家庭から出て学校という小さな社会に出た時、そこに見えるのは自分という大きな壁。
一つステージを上がる長男と三男とともに、私も一つステージが上がってこうやって親は育てられるんだなと感じるこの頃なのでした。