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『夜と霧』を読んで 〜自らの哲学と美学に根ざした生き方を〜

ヴィクトール・E・フランクル著、『夜と霧』。

本作は、ナチスドイツの強制収容所における、

過酷という言葉では収まりきらない体験の後日譚を語ったものである。

心理学者であった著者のフランクルは、

被害者としての生々しい経験も記しつつ、

この恐ろしい体験を、心理学的な視点から客観的に語ってもいる。


さてこのようなテーマと聞くと、

「昔はそんな恐ろしいことがあったのね、繰り返さないようにしなきゃね」

というレベルの感想で終わり、現代の我々には転用できるものがないと思ってしまいがちである。


しかし、本当にそうだろうか?

少なくとも私は、本書には、どの時代にも通底する、生きることの本質が描かれているように感じた。

そこで本記事では、本書からのフランクルの言葉を引用しつつ、

現代を生きる我々がそこから何を受け取ることができるのかについて、記述していきたいと思う。


「生きる」とは何か?

生きるとは何か?

私たちは何のために生きるのか?

人は時折こんなことを考え、将来に思いを馳せ、悩む。


「まあアリストテレス然り、結局は生きる目的は幸福でしょ?」

と考える人もいる。

私もこれには賛成だ。いや、賛成だったというべきか。


「生きること」に関して、フランクルは以下のように述べている。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ


この一節を読んで、私は驚愕した。

我々は常に、

「生きること」が我々に何を提供してくれるのか?

についてばかり考えて、色々と受け身な期待を膨らませている。


しかし、実は大事なのは、

「生きること」が我々に何を期待しているのかを考えることなのだ。


たしかに、我々が「生きること」に期待をしている場合、

順風満帆な時は、もっと上をもっと上を、と際限のない欲望に駆られてむしろ満たされない。

逆に少しでもつまづくと、人は簡単に絶望し、自ら命を絶つこともしばしばある。

これはまさに、社会学者のデュルケームが提唱した「アノミー」という概念に構造が似ている。

つまり、私たちは「生きること」に対して受け身な期待を寄せている以上は、真に満たされた世界を生きることはできないということだ。


さて、そこで発想の転換を試みるのである。

つまり、

「生きること」が我々に何を期待しているのか?

を考えるということだ。


この問いに対する答えは、

「いついかなる時も、自らの哲学と美学に則った意思決定を貫くこと」

なのではないか、と私は考えている。


フランクルは、「生きること」に関して以下のようにも述べている。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。
したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。

つまり、生きるとは、

生きることに積極的な意味づけをし、自らのブレない判断軸をもって、発生する様々な事象に対して瞬間瞬間の意思決定を行っていくことなのだ。

存在することの意味づけは、人によって、また瞬間によって可変であり、

生きることが課してくる要請に対して、どのような哲学と美学をもって対処していくかも、また人によって、また瞬間によって可変である。

そのため、生きる意味を一般論では語ることができない。

だからこそ、人は自ら積極的に生の意味づけを行わなくてはならないし、

生きることの要請に対して、それがたとえどんなに過酷なものだとしても、絶対にブレない自らの哲学と美学を確立させなくてはならない。


フランクルの人生哲学

上記の議論に照らして、フランクル自身の人生哲学が垣間見える以下の一節を紹介したい。

わたしの心をさいなんでいたのは、(中略)わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。
もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。
抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

想像してみてほしい。

この世でもっとも過酷といっても過言ではない環境下の中で、

フランクルの心をさいなんでいたのは、

「苦しみや死にはたして意味があるのか?」

という問いだというのだ。


そして、ただ単に生き抜くことを否定し、偶然の僥倖に救われただけの生は、もともと生きるに値しないとまで断言している。

これは明らかに、「生きること」に期待することなく、「生きること」が自らに何を期待するか、という問いに向き合っている。

そして、だからこそ、フランクルは生きる意味を見失うことなく、あの 環境から生還することができたのだと思う。


最後に、これまた本質的な一節をご紹介しよう。

人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。

そう、結局はこれだ。

フランクルもまた、謙遜はしていたものの、自らに生に積極的な意味を与え、生きることの要請に対して自らの哲学を突き通した。

その要請が、強制収容所という最悪のものであったのにも関わらずである。

つまり我々はどんな状況下にあっても、

「自らがどのような精神的存在になるか、どのように日々を生きるか」

について、自らで決定を下すことができるということである。


これは、平穏な日々を生きている我々にも間違いなく転用できることだ。

どっちが良いとか悪いとか、そういう次元の話ではない。

あなた自身がどっちの生き方をしたいか、どう生きたいかという話だ。

自らの生に意味づけをし、内在化した価値観に沿った意思決定を貫くか。

それとも、外部環境に一喜一憂する、偶然の僥倖に自らを委ねるような生き方をするのか。

現代を生きる我々に、この問いが投げかけられているように思う。


まとめ

情報が溢れかえる時代の中で、何を正義として信じるのか。

自らの日々の意思決定を、自らに内在化した哲学や美学に委ねるのか、それとも世間の風潮や、身近な人の圧力に委ねるのか。

これは日々を生きる我々に、一瞬一瞬のレベルで迫られている。

そして、前者の生き方を選択しない限り、フランクルが経験したような悲劇が再び繰り返されるのではないかと思う。


人を突き動かす最強の原動力、それは恐怖だ。

コロナ禍でもう嫌というほどわかったはずだ。

そしてこれから、再び経済恐慌が起きるのではないかとする説もある。

そうなると政情は不安定になり、内政も外交も不安だらけになる。


そう、これはまさに第二次世界大戦の時と同じ構造だ。

あの悲劇が起きたのは、恐怖に駆られた愚かな群衆が、自らの意思決定を、カリスマとされた人に委ねたことが原因だ。

あの悲劇を繰り返さないために、我々ができることは何か?

それは、自分の中に内在化された哲学と美学を持つことだと思う。

そして、それに従った意思決定を、いついかなる時も貫くことだと思う。


恐慌だろうと政情不安だろうと、どんな状況下に置かれても、

恐怖から思考停止にならず、冷静さを失わず、各々が正しいと思える選択を自分の頭で考えることだと思う。

そのために必要なのは、自らの哲学や美学を磨くための教養と経験だ。

だから私は、これからも教養を深めて発信していくつもりだし、

私の発信によって一人でも多くの人が自らの哲学を深め、ブレない意思決定の軸を形成していくことを願っている。

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