愛なき人生。
愛することができなければ、真に愛されることもない。
そう思う。
なぜなら、もし自分がその人を愛していないのに愛されたとしても、その愛に応えることができないからだ。応えられなければ愛されていないに等しい。
愛してもいない人に愛されたとしても、それは幸せだろうか。むしろ気持ちが悪いと思う。恋愛的な感情を他人に抱かれるということは、執着や嫉妬の目を向けられる可能性があるということだ。
私は恋愛感情というものをよくわかっていないが、その感情を説明しろと言われて説明できる人なんていないだろう。人それぞれ恋愛感情の色や形には違いがあり、同じ愛を説くものを読んでも表現の仕方は異なっている。恋愛感情に正しい答えなんて存在せず、あるのは人それぞれの解釈だけ。
他者と恋愛的なつながりを持つということを、私は望んでいない。
そもそも、自分がそういう感情を抱けないのに、どう繋がれというのだろう。少なくとも、どれだけ小説や漫画で愛を語られたとしても、同調することはできても、私は他人に同じような感情を抱くことはできない。
ただ恋愛的なつながりはなくとも、確かに『愛』はあると思っている。私は実家の家族に対して情を抱いている。
それは血縁だからということ以上に、人間として様々な部分が欠けている私に人間として接し、お互いの欠点を補い合いながら共に暮らしてくれている感謝がある。
実家にいる間は、私は取り繕わない私でいられる。生まれてからずっと、二十年以上同じ屋根の下で暮らしている実家の家族は、完璧ではないが気負わずにいられる仲間のようなものだ。私は彼らがいなければ生きていけなかっただろう。
恋愛感情を抱くことはなくとも、自分が寂しがり屋の甘えたがりであることは知っている。
他人に甘えることができないのは、自分が他人と違うからだ。どうしたって、成長するにつれ自分が独身で誰とも恋愛的関係を築いたことすらないことを訝しむ人が出てくるだろう。人は異分子を厭うし嫌う。私も同じだ。
自分と違う人間と関わることを疎んじている。
だから職場の人たちとも深く関わらないようにして、「彼氏いるの?」「結婚してる?」といった問いを投げかけられない程度の関係性でいたいと思っている。
私にとって、人と違うことを知られるのはとんでもなくマイナスなことだ。かといって嘘をつくことも嫌だと感じる。
だからといって、誰も愛せないと話すことは自分にとってマイナスであり、それを噂されるのではないかと恐怖するだろう。自分が異分子であることを知られるのは、弱みを握られるのと、似たようなものなのだ。
すでに幸い障害者雇用で雇われているだけあって、職場の人たちに深く突っ込まれることはない。遠巻きに見られ、見ている。
そういう関係性は居心地がよく、自分のことを知られていないことに安堵する。この雇用形態を選んだことは後悔していないし、自分だけ毎日定時で帰宅することにも慣れた。私が私でいられるならば、多少の犠牲は厭わない人間だからかもしれない。
こんな生き方をしていたら、実家の家族が皆いなくなったら、私の居場所はなくなるだろう。
それでも、私は深い悲しみに暮れながら本を読みたい。もったいなくて買えなかった小説や漫画を買い、床に穴が開きそうなほど本をうずたかく積み、その中で埋もれながら貪るように読む。寝食さえ顧みず、何もかも忘れて没頭し、物語を生み出すすべてのクリエイターのためにお金を使い果たしてしまいたい。
きっと私が家族の次に愛しているのは物語であり、私を生かしてくれているのも世に溢れている恋愛ではなく、物語なのだ。
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