マンガ ヘルプマン!から見る介護 3
第3巻は、表紙をめくると「介護に追いつめられていませんか」の文字。
介護虐待についての物語だ。
厳格な父、優しい母に育てられ独身息子。早期退職をして実家に戻ってきた。
そこにはやせ細り、介護を必要とする父。厳格さは変わらないが、一人では身の回りのことはできず、それを「威張っている」ように見える息子。
献身的に介護する母が入院することになり、弱みを見せない父と息子の1対1の介護が始まる。
「ちゃんとしてあげよう」と思っている息子に対し、「ちゃんとしろ!」と手を出す父。
やってもやっても文句を言われ、感謝の気持ちも表さない父。ついには父親に手を出してしまう。
しかし、一度出した手は、「お仕置き」となり、正当化され、状態化されていく。
良くないと思っていることが正当化されると危険だ。
息子は外では変わらぬ姿を見せながら、家では加害者となっていく。
介護地獄にハマっていく息子。
そこに「百太郎」が登場する。
高齢者介護の業界には、
「一人息子が一人で親の介護をしている時は、虐待を疑え」
と、いう差別的に思えるような言葉がある。
統計的にみると、それは実際に虐待が起きている裏付けでもある。
なぜ男性なのか。
そこには「育児」と「家事」の経験能力の差がひとつあると思う。
育児は思い通りいかない。
おむつ交換や汚れものの後始末なども、やってきているかどうかは介護に影響を与える。
家事もそうだ。普段からやっていないことを、必要を迫られ仕方なしで行うのは結構なストレスとなる。
そして、男性は「理論派」理屈的である傾向がある。
人に聞いたり相談するよりも、介護についての書籍を買ったり、検索して真面目に勉強をする。
そして「こうすればこうなる」と考える。
しかし、介護はそうはいかない。
こうしてもそうならない事も多い。人対人の感情労働であり、理屈だけではないのだ。
感情や習慣が行動に現れ、善し悪しではなく、快不快の世界になる。良かれと思ってやったことが、いつでも相手にとってありがたい事とはならない。
そこを理解できないと、「やってあげているのに、なんでそれに応えてくれない!」と怒りの感情がうまれる。
勉強して知識や方法を身に着け、組織の中で理不尽さを感じながら我慢してきたタイプだと、なおさら感情のコントロールは難しいかもしれない。
助けを求められない男性、自分は出来ると思っている男性は、我慢の紐が切れ、力でコントロールしてしまう傾向にあるのは事実だろう。
親子の介護は、「ギャップ」との問題でもある。
しっかりしていた親。
尊敬していた親。
そんな親が、衰え、出来なくなっていくのだ。
こども達が親に対して「しっかりしてよ!」という言葉をよく聞く。
その気持ちは十分わかる。しかし、しっかりしていけなくなるのが老いではないか。
自身の衰えを感じ、不安を抱え、愛する人に迷惑をかけたくない。そう思っても自分自身ではどうにもできない人に「しっかりして!」という言葉は、どう響くのだろうか。
「在る」ことと「する」ことという見方がある。
赤ちゃんや子供は、いるだけでいい。いてくれることがうれしい。赤ちゃんに何か「する」ことを求める人はいないだろう。
しかし、成人していくと「する」ことが求められる。
あなたは何ができますか?ということに価値を置かれる。
出来る事に対して報酬を得られる。できないと認めてもらえない。
これは経済至上主義の社会では特にだ。より効果的に、より生産性がないと、人として認めてもらえない。
生産性のない者は排除してもよいという発言をする政治家もいる。高齢社会にある日本ではどうだろうか?
簡単には死ななくなり、「人生100年時代」と言われ、75歳まで働こうという方向性。
衰え、経済活動が出来ない人は、社会からはじかれてしまうのか。
生涯成長・生涯学習と言われ、成長しないものは自己責任で貧しくなっても仕方がない。
昔は、じじばばも「家にいる」だけでよかったのではないか。
じじばばになにか「する」ことを求めてはいなかったのではないか。
人は年を取り、衰えていくのは今も昔も変わりない。
しかし、社会が作り上げた「社会の型」に人をはめ込み、一方的に自己責任を負わせるのであるならば、じじばば(老後)に安心して過ごせる時期は、それこそ「死ぬまでこない」のではないか。
人は年を取り子供に帰る。
いる存在から出来る存在になり、またいる存在へと戻る。
この自然な存在変化に社会を合わせていかないと、幸福度は下がる一方ではないのか。正しい人間観が必要だ。
百太郎は何をしたか。
また本人を、主役にしたのだ。
困っている家族。大変な家族。介護の大変さ。そこにクローズアップされていたのを、本人視点へと変えたのだ。
本人が楽しめる事。望む事。「何かあったどうするんだ!」と家族に言われても、「本人が望んでるんだからいいじゃないか!」と、いつでも本人を主人公に、本人のために行動する。
だからじじばばに好かれる。
好かれるからさらに信頼される。時には家族よりも信頼され、それ故嫉妬さえされる。
ここまでになると、まさにプロである。
認知症ケアで大切なのは、困っているのは「本人だ」ということだ。
そこを無視して、あれこれ必死にやっても、課題は解決せず、本人の「快」はうまれない。
そこに気づかせるのが専門職の役割だ。
介護者の自己犠牲により成り立つ介護は、健全ではない。
もちろん被介護者の忍耐で成り立つもの違う。
大変な介護は専門職へ。
その分、家族など近くにいる人は心に余裕をつくって、今まで以上または介護以前のような関係性を継続させる。
「いっそ、殺してしまいたい。」
「死んでもらえたら」
そんな思いをしない、させないための介護保険の使い方をしてもらいたい。
高齢者虐待には5つの虐待がある。
身体的虐待・心理的虐待・介護世話の放棄・経済的虐待・性的虐待。
介護の仕事をしている人には、業務でこう言った虐待や疑いを見つけた際は、通報の義務がある。見て見ぬふりは、同罪となる。
介護の専門職として働くものが、虐待をするニュースは、なくなる気配はない。
マンガの中でも、息子は力で言うことを聞かせ、父親の生活を管理していく。
しかし、百太郎は、決して家族を責めることはしなかった。
『介護ってのは立派な人間がするもんだって思いこんでる人が多いんすよ!』
『愚痴ひとついっちゃいけねぇ・・・って。本気でそう信じ込んで自分で自分を責めまくってる人がいっぱいいるんすよ・・・。マジやりきれないっす!』
と家族に話す。そして、
『(一生懸命介護しようとしてる人が壊れていくのは見たくねえ・・・!んなことはあっちゃいけねえ!)』と支援者を増やそうと奔走する。
息子も『父さんに褒めてもらいたいと願ってきました・・・。でも父さんは怒鳴ってるのが一番父さんらしいのかもしれませんね・・・』と視点を変えることで物語は終わる。
親子だからこその感情が、老いを難しいものにしてしまうことはある。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?