【#10】連載小説 『 美容室「ヨアケ」、開店します。』 (第3章 「はい、どーじょ。」第2話)
よく手入れされたシザーが、まるで末継の手の一部かのように滑らかに動いている。地肌には触れられていないのに、心地よく柔らかな空気に包まれているような感覚がした。
シャキシャキ、カチッ、とシザーがリズミカルに鳴る音も、楽しげな音楽のようだった。
今まで見てきたどんな美容師とも違っている。
あまりにも鮮やかで、吉祥寺が文字通り口をぽかんと開けて見とれているうちに、カットは終わってしまった。
「す、す、す…すげぇ!!!」
末継は二つ折りの鏡をワゴンから取ると、後ろや横の部分も見えるように掲げた。
「気に入ってもらえたかな?」
「も、もちろんっ!!えっ、マジで?すげぇ…」
吉祥寺はカットクロスを着たまま、ぴょん、と立ち上がって鏡をのぞき込んだ。
「うわぁ…あの、その鏡、貸してもらっても良いですか?」
「もちろんどうぞ」
大きな鏡に背を向け、吉祥寺は自分の後頭部をよく見ようとしたが、動きが大きすぎて
「あれっ?」
「見えない…?こっちか?」
などど言ってぴょこぴょこ動いていたので、他の客やスタッフも笑っていた。
「はははは!君、おもしろいねぇ。元気、封印しなくて良いんじゃない?」
末継が道具を片付けながら言った。
「あのっ!オーナーさん!えーと、あのぉ…僕、実は美容師なんです!」
「ああ、なんとなくそうかな、って思ってたよ」
末継が言ったので、吉祥寺は目を丸くした。
「ええーっ!!わかるんですか?すげぇ!マジでカリスマ…!!…あ、でももちろんまだアシスタントだし、あちこちでいろいろ失敗しちゃって、続かなくて…だから今、えっと、無職で…」
「ああ、それならうちで働けば?このあいだアシスタントがひとり辞めたばかりで、ちょうど募集してるし」
「ええーーーっ?!マジっすか?!いいんですか?!」
フロアにいた麻衣と、店長の坂本が驚いて一瞬手を止めた。
「うわぁ!こんなすげえカリスマの店で働けるのかぁ!嬉しすぎるー!!ありがとうございます!よろしくお願いしまーす!!」
***
「はぁーーーっ!!まぁーたこれだよ。信じらんないっ…!!」
その日の閉店後、一階フロアでのミーティングで、店長の坂本が言った。
坂本は二十代後半のロングヘアの美人で、カットの腕も良いので顧客を沢山抱えていた。
「オーナーってさぁ、なんでも相談なしに決めちゃうでしょ?マジで大変なのはこっちなんだからさあ、もーいい加減にしてほしいっ!」
坂本は今日は夕方から顧客が重なってかなり忙しく、よけい苛立っているようだった。
「表の通りを暇そうに歩いていたみたいっすね…あの、なんて言ったっけ?高円寺君?」
その日の業務日誌を書きながら、男性スタイリストの新城が言った。新城は背が高く二十代後半で、おしゃれでセンスも良かったので、特に女性客に人気があった。
「あはは、ちがうよ、吉祥寺くんだよ」
スタイリストの荒井が、吉祥寺の書いたカウンセリングシートを見ながら訂正した。大きく丸っこい字が、枠いっぱいに踊っていた。
「ああ、吉祥寺君。僕はチラッとしか見てないけど、面白そうな感じだった…」
「あ、新城、教育係ね。頼むね」
かぶせるように、坂本が言った。
「えっ?!俺っすか?田辺じゃないんすか?」
「田辺はアシスタント業務とかの教育係。施術に関することは、新城お願いね」
「えーーっ」
「えー、じゃないよ。なんかあの子トラブルメーカーらしいから、しっかり教育してよね。大体、履歴書も見てないのに採用するなんて信じらんない!どんな子かわかんないじゃない!さっきオーナーに文句言おうと思ったのに…逃げ足だけは早いんだから…!!」
坂本は目の前のガラステーブルに置かれていたシュークリームの袋を乱暴に開けると、むしゃむしゃと食べ始めた。
「このシュークリーム、お詫びのつもりなんでしょうか…」
麻衣が言うと、荒井が笑った。
「確かにー!!オーナーって何かやらかすと、スイーツ買ってきてくれるよね~。しかもこれ、高級そう….。うん、うまっ」
荒井は、口元についたクリームを指で拭いながら言った。
「これ食べたらもう逃げられないっすよ」
新城が言った。麻衣と荒井は笑ったが、坂本は一切笑わず、二個目のシュークリームに手を伸ばしていた。
***
「明日からこの吉祥寺君っていう子が入るから、入江さん、タイムカードに名前書くのお願いしますね」
数日後の午後、フロントの女性、入江智子に店長の坂本が言った。入江は三十代後半の主婦で、パートタイムで昼間のみ働いていた。
ヨアケはいまだに昔ながらのタイムカードがあり、それで勤怠を管理している。
(吉祥寺、大…。どんな子なんだろう…いくつかな…)
カードに丁寧に名前を書いていると、坂本と入れ替わりに新城が降りてきた。
「おつかれさまでーす。あっ、吉祥寺くんのタイムカードだ。明日からっすよね?」
「はい、店長がそう言ってましたよ…ところで新城君、この吉祥寺君ってどんな子か知ってる?」
「俺もまだよく分かんないんすけど…オーナーが店の前で拾ったらしいっすよ」
新城はガラス棚の下の引き出しを開けると、シャンプーとトリートメントの在庫を取り出し、カウンターに置きながら言った。
「え?拾った??」
「拾ったは冗談すけど、あちこちクビになってブラブラしてて、オーナーがいきなり声かけたみたいで」
「何歳くらいなの?」
「確か二十一、二歳くらいって聞いたような?」
「そっか…」
「その年齢であちこちクビって、やばいっすよね。うちも続かないかも」
「確かに…」
「入江さん、これ俺のお客様のなんで、会計の時にお願いしますね」
新城はさっき置いたシャンプーとトリートメントを指さしながら言った。
「あ、はい、わかりました。レジに入力しとくね」
シャンプーやその他ヘアケア商品は、一つ売るごとにスタッフの給料に歩合制で上乗せされるので、みんな必ず「自分につけておいてね!」と念押しをしてくる。
誰のオススメで売れたのか微妙な場合、智子は板挟みになることもあったので、間違いのないように常に気を付けていた。
「あ、入江さん今日はもう上がりっすよね。いま俺、暇なんでフロント代わりますよ」
「うん、ありがとう。じゃあ、お先に失礼します」
智子は自分の荷物を取りに、二階の休憩室に上がって行った。
***
「おはようございまーす!!今日からここで働くことになった、吉祥寺大です!よろしくお願いしまーす!!」
次の日の朝、吉祥寺は店の入り口から入ってくるなり、高速で深々と頭を下げながら言った。
一階のフロントには、開店準備をしている智子がいた。
ちょうど、シャンプーなどの商品が並んだ造り付けのガラス棚を拭いていたが、大きな声に驚いたのか、吉祥寺を見て固まってしまった。
「あっ、すみません!!朝からうるさかったですね!」
「…」
「えーと、あの、…すみません、誰さんですか?」
「…あ、あ、そっか、ごめんなさい。私、フロントの入江と言います。よろしくお願いします」
「入江さん!よろしくお願いしまーす!えーと、入江さん…フロントの入江さん…」
吉祥寺はブツブツ言いながら、階段を駆け足で上がって行った。
*
昼過ぎに休憩室で一人、智子は持ってきたお弁当を広げていた。
休憩室は二階の奥にあり、テーブルとイス、冷蔵庫と洗濯機、小さなシンク、スタッフの荷物用のカラーボックスなどがギチギチに置かれているので、かなり狭かった。
智子は立ち上がり、シンクの上にある上下に開閉する小窓を押し開けた。閉め切っていた室内に、スッと外の空気が流れ込んだ。
それから智子は自分の棚に置かれていたバッグを探り、小さなポーチを取り出した。
(もしかしたら…いや、でもそんなわけないよね)
そして中から、手のひらサイズのスティックのりを取り出した。黄色地の側面に動物のイラストが描かれた、子供用のごく普通のものだった。
(まさか…ね)
そのとき、休憩室の引き戸が開き、荒井が入って来た。
「おつかれー」
智子は、スティックのりをポーチにしまった。
「ねえ!今日から入った吉祥寺くん!さっそくやらかしてるよ~」
「え?そうなんですか?」
「そーなのよー。それがね…」
荒井は棚に置いてあった自分のカバンから、水筒を取り出してグビグビ飲んだ。健康オタクでいつもルイボスティーを常備していて、最近は自宅で作って持ってきていた。
「さっき店長のさぁ…ふふふふ…あははははは!!!」
「えっ?なんですか?」
「あははははっ!ひーー…」
「えー?気になるー!わかんないじゃないですか〜」
「あはは、ごめんごめん!チョー面白かったからさー」
吉祥寺は、坂本の客がつけていた白いカットクロスを一度はずし、付いた髪の毛を落とすように指示された。
「首元失礼しまーす!」と元気よく言うと、クロスを外し、軽く振れば良いものを、バサーーッ!!!と大きくひと振りしたので、そのためか手から離れてしまった。
すると、マントのようにひるがえったカットクロスは、隣でワゴンの下段に手を伸ばすためにかがんでいた坂本に覆いかぶさってしまった。
「きゃあっ!」
急に視界が白くなり慌てた坂本は、バタバタ手を動かしたので、ハロウィンのお化けがダンスしているみたいになってしまった。
普段はクールビューティーというイメージなので、そのギャップに常連客もスタッフも、大笑いだった。
「うわぁ、見たかった…!でも店長、めちゃくちゃ怒ってそう…」
「そうそう!!めっちゃ赤くなって怒っててさーー!それがまたねぇ…あはははは!面白くて…!!」
荒井が笑いすぎて苦しそうにしていると、休憩室の引き戸がガラリと開いて、当の店長が入って来た。
「もーーーーうっ!!!!信じられない!!!あいつ~!!」
「災難でしたねぇ。クロスのこと、今聞きました」
智子が言った。
「ほんっとにっ!!あーもう!!お客様にかかんなくてよかったけどさぁ…って、ちょっと今、私のこと笑ってたでしょ?」
「あ、いえ、それほどには…」
智子は言ったが、荒井は再び笑いながら言った。
「いやだってさぁ、あれは笑えるでしょ~!!ごめん!!やっぱムリ!!」
荒井が目に涙を浮かべながらなおも笑っているので、坂本はムッとして出て行ってしまった。
「吉祥寺、こんなかんじであちこちクビになってきたんじゃない?やばいよね~」
その時、荒井の持っていたタイマーがピピっと鳴った。
「あ、パーマ見てこなきゃ。あー、苦しかった…!ふー。じゃあ、ごゆっくりー」
荒井は水筒をしまうと、休憩室を出て行った。
***
「オーナー!!あの子、なんとかして下さい!!」
指名客の予約が入ったので、オーナーの末継が店に来ていた。
ちょうどフロントで智子と話していたところを、逃がすまい、といった気迫で坂本が捕まえたのだった。
「え?あの子って?」
「え?じゃないですよ。わかりますよね?吉祥寺です!」
「ああ、あの子明るくていいよね」
「えっ?!明るくてって…まあよく言えばそうですけど、でも色々周りに迷惑が…」
「俺のお客さんにも評判いいよ。いい子だねーって」
「それは…。お客様はそう言いますけど…」
「坂本のお客さんも言ってるんだ。そうか、あいつ真面目に頑張ってるんだな」
「え、まあ…確かに真面目で頑張ってはいますけど…空回りしちゃって、この間も…」
「あ、二階で呼んでる。じゃあ、行ってくるわ」
末継はサッと逃げてしまった。
「あっ、オーナー?!もーーーっ!!」
「店長…お疲れ様です…」
智子が言った。
「また逃げられた…。まあ確かに吉祥寺、お客様の評判だけはなぜかすごく良いのよね…くやしいけど」
その時、二階からダダダダ、と、吉祥寺が降りてきた。
「店長ーっ!お客様がお呼びでぇーっす!!」
「わかったから、階段そんな勢いで駆け下りないっ!声も大きすぎ!」
「すみませーん!!」
吉祥寺は高速で深々と頭を下げた。
その様子を見て、これ以上注意するのにも疲れた、といった感じで、坂本は二階に上がっていった。
「吉祥寺くん、お疲れ様。お店には慣れた?」
智子が聞くと、吉祥寺はニコニコしながら答えた。
「はいっ!!そろそろ一か月くらいですけど、まあまあ慣れてきたかな~って感じです!みなさん優しいし…あ、でも…」
「でも?」
「やっぱ、失敗ばっかりで…。僕ってまた、クビですかね…」
「でも、吉祥寺くん、お客さんに評判いいよ。特に年配の方とか」
「うそっ?やたっ!嬉しいなあ!ありがとうございます!」
吉祥寺は確かに失敗も多く、大きな声やリアクションがうるさかったりするのだが、どこか憎めないところがあった。
それは智子だけではなくスタッフもそう感じているみたいで、いつも怒っている坂本さえも、みんなと一緒に笑っていることもあった。
けれど坂本はそれを認めたら負けだ、とでも思っているようだった。
「ところで吉祥寺くん…」
智子は、この間から吉祥寺に聞こうと思っていたことを、勇気を出して聞くことにした。
(第3章 3に続く)