掌編「手紙」
あの人へお手紙出しちゃった。
もっとゆっくり、じっくり出そうと思うのに、どうしても書きたくなってしまう。伝えたいことが溢れてしまって、書きたい気持ちが納まらない。それでペンを手に、つらつらと書いてしまった。私は広辞苑も引きながら書くのに、勢い余っていつも一度は書き間違える。「ああっ折角飛び切りの便箋で書いているのに!間違えた!」となる。
ごめんなさい、失礼だと思いつつ、そのまま、紙を代えないで書き上げました。紙は、貴重な資源だから、勿体無い扱いは、矢っ張りどうしても、できないです。それでどうかこうか書き上げて、早速切手を貼って、ポストへ揚々と歩いて、無事に届きますように、無事に届きますように・・沢山願いながら、奥までえいと押し込む。時々ポストの口に、封筒が挟まっているけれど、あれは一体、どういう気持ちで手を離したんだろう。どういうタイミングで目を離したんだろう。落ちたって、ご本人は思っていらっしゃるのかしら。
手紙を出した後は、ひたすらにうきうきしている。ああ、書いて良かった。って、ちゃっかり安心しきっている。それから今度は段々、雨が降らないかしら、無事に届けられるのかな、と仕方のない心配し始める。いや大丈夫、郵便局員さんを信じようと思い出す。
その波が去って、不図書いた内容を振り返り出す。勿論、封をする前に、誤字脱字、失礼が無いか、読み返してはいるけれども、その時は気が昂っているので、何度読み返しても、「ー敬具 よし、大丈夫」となってしまって、読み返す意味、あまり無い。それで翌日、突然、もっとこう書けば良かったとか、言い方が悪かったんじゃないかとか、色々と考えだす。他にも、あの話より、こっちの話がしたかったのにとか、仕事の合間に、執筆の合間に、突然に唸るような、手の付けられない、呆れた自分が顔を出す。
また書けばいいじゃないと、誰かに諭して欲しい。それで私は、うん、次はもう少し落ち着いて書きますと思い直す。
けれど夏目漱石先生は、小説の執筆の準備運動代わりに、毎日何通もの手紙をお書きになられていたそうで、それなら私は、幾らでも書いていいのではないかと、開き直ってしまいそう。字も上手くないことであるし、年賀状もそろそろ書かなくてはならないし、それなら修練と思って、手紙も好きなだけ書こうかな。書いてしまってもいいかな。
手紙はいい。手紙が好き。あげるのも、貰うのも、嬉しい。
お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。