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滴る本

かつて本の虫だったのに、この数年本を読むことがめっきり減りました。ついつい開くのはスマホの画面。それでも落ち着いて文章に浸れるのは、紙の本だなと思います。

読む量が減ったのに、本はついつい買ってしまいます。まだ本の虫だった頃は電車通勤で、駅の本屋に毎日のように入り浸りました。本を買わなくても、平積みされた本の表紙や変わっていく本のコーナーをチェック。手にとって、前書きや目次をパラパラ。時には立ち読みでつまみ食い。とてもとても楽しかった。今思えば、ネットサーフィンより満足感がありました。ネットサーフィンだと、読んで残念な気持ちになる文章に出会うことがままある。本屋だとパラッと見て判断できて、自分自身に選別のイニシアチブがあるから時間の無駄と思うことがなかったのかな。

転職した今、数年前より本を買う予算がある。なのに気になる本を買って帰っても、家で落ち着いて本を読む習慣がなく、ほぼ積ん読になっている有り様。環境や習慣のせいなのか。単に今は読む時期でないのか。そもそも読む必要があるのか。結果的に本を物色している立ち読みで一番読めていたりして。

コーヒーショップなど家の外での居場所だと家より本を開きやすいです。今日も買ったばかりの本を本屋に併設されたスタバで開いたところです。人の習慣は行動の積み重ねで変わっていくものだから、こうしてとにかく本に触れて開く機会を持つことが未来の習慣につながったりするかもしれない。

家に帰ったら本棚の背表紙達が目には入ります。自分が何に関心を持っているのか、いちいち思い出させてくれる本の存在です。本がそこにある。そのことの意味。文字が印刷された紙の束が、無言で私に語り書けるもの。

それは無知の知かも。見える世界、いまここにある世界だけでないたくさんの思考や物語が、この世の中にあふれていること。時空も超えて、重層的に多くの世界や因果、事象が存在していること。肉汁滴るステーキのように、滋味あふれる本がたくさん私を待っている。そんな本の重さに若干戸惑いと畏れを感じている。飛び込みたいけれど、溺れそうで怖い。こんなことを思ってしまうのは、私が大人になったからなのか。

それでこれから、私はどうするかというと。

今の今は、私も言葉を書いている。自分に起きている現象を言葉という道具で、棚卸しの作業みたいなことをしている。アウトプットすることによって、インプットのための余白を自分のなかに作っているのかもしれない。そんな今です。

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