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100万回生きたねこ

佐野洋子 1977

・・・・・「私が愛する人は皆、死人である」・・・・・

主人公の猫は、100万回生まれかわっては、様々な飼い主のもとで死んでゆく。どの飼い主も猫の事が大好きで、その死に泣く程悲しんだが、猫は自分の事だけが大好きで、それぞれの飼い主達のことが大嫌いだった。何度も生き返るので死ぬ事も特に恐れていなかった。
ある時、猫は誰の猫でもない野良猫になった。猫は、100万回生きた事を自慢していたが、唯一自分に関心を示さず、素っ気ない反応しかしない一匹のメスの白猫が気になり始める。何とか興味を引こうとするうちに、いつのまにか猫は、ただ白猫のそばにいたいと思うようになった・・・。

・・・・・「死なない人はいない」・・・・・

『100万回生きたねこ』
絵と文が浮かび、十五分で一気に描き上げたという絵本
この本で「佐野洋子さん」に出会う人が多いのではないでしょうか。誕生日やクリスマスプレゼントで「絵本」を送る、という心を持っている両親がいらっしゃるのなら、なおのこと。大事に思われている人からの贈り物、またこちらから想う人への贈り物。
絵本の内容はシンプルですが、それまでのどの絵本とも違った結末は、人を不思議な気持ちに誘います。悲しい物語の閉じ方なのに、「よかったね」と感じ入る読了感。

・・・・・「そして死んでも許せない人など誰もいない」・・・・・

なぜ、と思っても。・・・ここで止めておくのがよい。そこから先は、「佐野洋子」さんの人生を辿らなければならない。佐野洋子さんは数多くのエッセイを残しておられます。生い立ち、心情、全てを曝け出しているかのような内容で、受け止めるには少々こちらの心を傷つける覚悟が必要です。「エッセイというのは世間話と思っている」と書かれているが、どれも「矢」のようにこちらの胸を目掛けて放たれてくる。
『100万回生きたねこ』が「よき贈り物」として見えなくなってくる。
「・・・『100万回生きたねこ』というただそれだけの物語が、私の絵本の中でめずらしくよく売れた本であったことは、人間がただそれだけのことを素朴にのぞんでいるということなのかと思わされ、何より私がただそれだけのことを願っていることの表れだった様な気がする・・・。」(後年のエッセイ『私はそうは思わない』より)

・・・・・「そして世界はだんだん寂しくなる」・・・・・

「100万回生きた猫」という絵本に触れて、「誰かと共有したい、誰か大事な人への贈り物としたい」と、主人公の猫のように「誰か」を大事に思う気持ちが溢れてくる人へ。・・・この絵本の「先」へと進んで欲しいと思います。佐野洋子さんは「誰か」にあててエッセイを書き続けてきた人です。つらい現実をユーモアに変えてはいるものの、その数々の言葉の余韻はいつも切ない。佐野洋子さんのエッセイから教えてもらう事は少ないかもしれない。けれども・・・この「100万回生きた猫」の絵本の「先」へ進んだ人は、和解を描いた明るくも悲しいエッセイに辿り着くことができる。
・・・きっと大事な「誰か」と和解するための準備ができる。

並んで横たわった母親が娘の手を握り、「ワタシ、アナタの様なネエさんがホシイ」といった。娘は「私はあんたみたいな母さんが欲しい」と言った。すると老いた母は笑いながらいった。「アハハ、ワカンナイモンネエ」
・・・『シズコさん』(2008)より

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