日記:えもいわれぬ「今」をとどめたいのだけど、それは無理なんだよなあ:東京都立美術館マティス展
あ、今日は日曜だった、「毎週note」の日だったと夜になって気づいています。
明日はGW明けの月曜だけれども、書くか。。。
「毎日note」をやめて「毎週note」に変えてから、明らかに「週末には忘れてしまう思索」が増えています、すぐに書くってやはり大事で、だからせめて週末だけはnoteしようと。思索のメモが大きな目的なので。
マティス展です。色々書きたいけれども、1点だけ書こう。
そういった言い訳を書く時間はあるんだなあ、と自分にため息しつつ。
味わっているのはりんごのある風景ではなくその先。
(マティスに限らずだけど)静物画、(も)好きです。
マティスの静物画はやはり、「窓枠」があることがいいのだろうか。
とにかくも、静物画、あとマティスの室内画(も)、好きです。
それは私にとって、「大きな感動」のない、でも(あえて言えば)ひたすらに愛おしいひとときの描写です。「エモい」とは言いたくない、「えも言われぬ、あのひととき」にふっと立つことができる。一瞬の風に吹かれたみたいな感覚です。
これと同じような感覚に浸れるものとしては、「俳句」じゃないかなあと、何となく考えています。
りんごを描いていても、りんごを詠んでいても、味わっているのはりんごのある風景の素晴らしさではなく、その先。そこに宿る空気感のようなものなんですよね。
表現してもつなぎ止められない「今」
その「えもいわれぬ今」を留めたくて、自ら絵を書きたくなったり、俳句を読みたくなったりすることがあります。写真でもいい。
そういった動機で表現する人、たくさんいるのではないかなあと思うのですが。
では思うような表現ができたとして、その「今」が留められたのかというと、「それが違うんだなあ」。
。。。というのが、今回のマティス展で感じたことでした。
なんでかって、その絵を味わう間にも、時間は流れるからでして。
絵の前で佇んでいる間は、そのひとときを味わうことができる。けれども、絵の前を動いたら、そのひとときは去ってしまう。
結局、時間が流れるからこそ「味わえる」訳で、ということは逆に、いくら「絵に留めようとも」、その瞬間を掴むことはできない。時間は無常にも過ぎていくのです。
何か形にしたものがあれば「確かなもの」「自分のもの」になった気がするのですけれど、味わう自分が時間の流れ(変化ともいう)の中にいる以上、決して自分のものにはならないのです。
これってどういうことなんだろう、じゃあこの気持ちはどこにいくんだろう、まさに泡のようなものと悟るしかないんだろうかと、時々考えます。
みなさん、どう思いますか?
おやすみなさい。
[日記:2023年5月7日]