「自然体ってなんなのだろう?」を考えることは、自分だけの定義を見つけ続けること。
改めて、「自然体ってなんなのだろう?」と思うことが多くなってきた。ソラミドを運営するなかで、いろいろな方を取材すればするほど、わからなくなってくる。共通した要素があるといえばあるのだけれど、それだけを体現すれば「自然体」なのかと言われると、答えはNOだと思うし、そうやって方程式があると考えてしまうと、「自然体」からは遠のいてしまうのかもしれない。
初心に戻って、辞書を引いてみると…
自然体
①ごく自然に素直に立った体の構え。特に柔道でいう。
②特別につくろったり緊張したりすることのない、ありのままの態度。
だと書いてある。キーワードとしては「素直」「つくろわない」「緊張しない」「ありのまま」だろうか。どれも、ニアリーイコールで繋げることはできそうな単語。
でも、それぞれの意味を自分だけの定義で語ることができる人は、どれくらいいるのだろう。少なくとも、僕は語れない。
以前、ぽけーっと考えているときに思ったことなのだが、多くの人が何気なく使う言葉に対して、自分だけの定義を、こだわりを持っている人はかっこいい。
例えば、“普通”という言葉。もちろん、辞書的な意味はあると思う。けれど、「あなたにとって“普通”ってなに?」と問われて、答えられる人は少ないはずだ。けれど、そこで「僕は〜〜というニュアンスを感じる」とか「私は〜〜って感覚がある」などと語れる人は、言葉に正面から向き合っている感じがして、自分が発する言葉に真摯な気がして、なんだかかっこいい。
その人の世界がちゃんと存在するような、その人が生きている意味がそこにあるような。そんな感覚を抱くのだ。
辞書から抽出した自然体のキーワードとして、「素直」「つくろわない」「緊張しない」「ありのまま」を挙げた。
これらの単語を複合したものが、「自然体」なのだろうか?
違うはずだ。きっと、キーワードと重なるものもあるだろうが、「自然体」にしかないニュアンスが存在する。
そして思った。「自然体ってなんなのだろう?」を考えることは、自分だけの定義を見つけ続けることなのかもしれないと。
そのためには、「素直」の定義を持つ必要がある。「つくろわない」「緊張しない」「ありのまま」の定義を持つ必要もある。そのうえで、自分にとっての「自然体」の輪郭をはっきりさせていく。その輪郭は、自身や環境の変化とともに変わり続けるもの。
画一的な答えを探すのではなく、自分にとっての定義を探し続ける営み。
それはきっと、“探究”と呼べるもの。この探究を自分で深めていきたい、そして仲間と呼べる人と共に深めていきたい。
自然体を探究し、自分だけの定義を見つけ続ける。
終わりのない探究を、自分で、そして仲間と共に楽しんでいけたら。心からそう思う。
(執筆:安久都智史)