あなたが殺したいほど憎いあの人は、誰かにとっての唯一。「ラスト・オブ・アス パート2」
嫌いな人がいる。嫌いにとどまらず、憎くて仕方ない人だ。笑っている姿を想像するだけで、顔が赤くなり呼吸が乱れる。無駄に声を荒らげ、物に当たって心を沈めようとする。直後、子供じみた自分が恥ずかしくなり余計に落ち込んだりする。こんな惨めな思いをするのはあいつのせいだ、と過去の怒りに薪をくべる。
怒りは毒だ。憎いあいつより先に、自分がそれを飲まなければならない。最善の方法は未だにわからない。
最悪で最高、嫌いだけど大好きなゲーム
「The Last Of Us Part Ⅱ」をクリアした。
前作よりアクション性が格段に上がり、没入を邪魔しないゲームデザインが、質の高いエンターテイメントを体験させてくれた。
前作から4年後、過酷な旅を経たジョエルとエリーは、ジャクソンシティで穏やかに暮らしていた。ジョエルをはじめ友人や想い人と共に、失った青春を取り戻すエリー。しかし町に暗雲が忍び寄る。エリーは再び銃を手にとり、自ら憎しみの渦中に身を投じるのであった。
続編の発表時、喜んだと同時に一抹の不安があった。なんせ今作のテーマが「憎しみの物語」だったからだ。トレーラーを観るだに、これはエリーと共に自分も毒を飲まねばなるまい、と感じざるをえなかった。
しかし、いざプレイしてみるとそれらは杞憂に終わった。なぜなら心の隅に息を潜めていた私は「奇跡など起きない過酷な現実世界」モノが大好物だったからだ。
ラストオブアスはまたもや最高のゲーム体験をさせてくれた。
感情移入で歩み寄らせ、一気に引き離される不快感
「The Last Of Us Part Ⅱ」は酷い話のゲームだ。弱者や守るものがある者ほど真っ先に死ぬ世界で、時には人を殺してまで生き抜かなければならない。不条理で不正義がまかり通る世界で、正しさなんて曖昧なものに固執すると命取りになる。奪い奪われ、殺し殺されの地獄を生き抜かなければならないのだから。
だからと言って「酷い=面白くない」というわけじゃない。酷い話だからこそ、その中で葛藤するエリーの姿に心が揺さぶられた。
ゲームが他のエンタメと違い、独自の体験をさせてくれる要素として「操作」するという行為がある。コントローラー のボタンを押しフィクション内の主人公を操る。敵を叩きのめしお姫様を助け世界を救うと、まるで自分がそれを成し遂げたかの様に称賛される。
現実世界では経験できないことをシミュレーションさせてくれるのが、ゲームが魅力的な理由の一つだ。
しかし、ラストオブアス2はそれを逆手にとる。
「確実に不快感」を与えるためにプレイさせてくる。ある人物のある行為を、プレイヤーが操作することで「共犯者」にさせようとする。自分はそれに賛同できなくても、ある人物の憎しみには関係ない。
神の視点で物語を見ているプレイヤーにとって、それをさせることがどれほどの嫌悪を感じるかをノーティドッグはわかってやっている。
心は所在はどこか
ゲームのはずなのに、心が張り裂ける様な感覚に陥った。エリーをはじめ、登場人物の心に触れたからだ。まだ復讐は終わっていない、もっと苦しむべきだ。いやもう十分じゃないか、これ以上すると戻れなくなる。だからもうやめるべきだ、頼むからやめてくれ。と何度も願った。しかしプレイヤー意思に反して、憎しみの地獄は進んでいく。
感情移入を逆手にとり、プレイヤーに居心地の悪さを与えることによって心に負荷をかける。自分の慣れ親しんだ常識や善悪の概念に、一度立ち止まって考える。現実で人に接する時には、少しだけ思考の流れがアップデートしているかもしれない。
終盤は進めるのが怖くて仕方がなかった。祈る様にコントローラーを握り、物語の終わりを見守った。茫然とエンドロールを眺め、胸の部分にポッカリと穴が開いたような感覚に気付く。
元々、何かで埋められていたものがなくなっている。
喪失感と共に、心の所在をぼんやりと認識した。
地獄をシミュレーションする
これで良かったなんて全然思わない。そもそも復讐をテーマにしている時点で、気持ちよく終われるはずがないとわかっていたはずじゃないか。
残酷でやりきれない物語のゲームだ。前作ファンを気持ちよくさせるなんて思っちゃいない。
現実では奇跡なんて起きないし、ピンチの時にヒーローは現れないし、立ち上がってくれと願ってもそれは叶わない。しかし自分を気持ちよくさせてくれないからといって駄作というわけじゃない。むしろその徹底した現実感が、より物語に没入し心を揺さぶる要素となっている。
ゲームは別の人生をシミュレーションすることができる。エリーが体験した痛みも、怒りに任せた選択も、その中で見出した人間性も、全部私が経験したと言っても過言ではないほど、物語に没入する様に作られていた。
もちろん血生臭い復讐劇なので、合わない人がいるのは仕方ない。しかし凝りきった頭や乾ききった心にガツンと衝撃を与えてくれる。「The Last Of Us Part Ⅱ」はプレイヤーに善悪や正誤の曖昧さを投げかけ、各々の人生に多面性があるという視点を持たせてくれた。
怒りの顔は自分で見る事は出来ない
プレイ中、いたる所に鏡があることに気づく。まるで「自分を見つめろ」と言われている様だった。エリーの憎しみが増すたび、鏡は曇っていく。しまいには鏡が割れて見ることさえ出来ない。
そしてエリーの復讐劇は暴走し、プレイしている私がついていけなくなる瞬間があった。復讐したい気持ちはわかる。だが痛い目にあってもなお、なぜそこまで固執するのか理解できない。
しかしラスト、ある人物のセリフが作中のモヤを晴らし「The Last Of Us Part Ⅱ」のテーマが明るみになる。その瞬間、エリーの「復讐への固執」にもう一つの面があることに気づき、思わず涙が溢れた。そうだったんだエリー…。
光と影。憎悪と愛。復讐と許し。
鏡像関係だった諸々の要素が、点と線になり物語が反転する。もう一度最初からプレイしたくなるのもノーティドッグの手の内だったのかもしれない
前作同様「プレイする映画」と言われるのは、自分の手でプレイしてこそ「The Last Of Us Part Ⅱ」を心底楽しめると言う意味なのかもしれない。
物語を進めるには「共犯者」にならなければならない。開発者曰く「普通と評されるくらいなら、大嫌いと評された方が良い」と言うコメントを出していた。
なるほど、私はまんまと「嫌いだけど大好きなゲーム」として「The Last Of Us Part Ⅱ」を満足してプレイすることができたのかもしれない。すごい面白かったぞ!
でもやっぱモヤモヤすることあるし、やりきれない気持ちで一杯。
時間を置いて再プレイすることで、色々なことが氷解するのかもしれない。
前作同様、感情を引きずるゲームだなとつくづく感じた。