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人間関係における情と合理性

どうもこんばんはラモスたくやです。
今日は、人生の永久命題である人付き合いに関して、今日の私が思う人付き合いの内実に触れたい。

人付き合いとは何か?
そもそもここから考える必要がある。大きくかかわる人間は、家族、友人、恋人、所属する集団の上司、部下、同僚などだろうか。

人間は、なぜ人と付き合うのか、その根源的理由は、マズローの心理学における五大欲求に依拠すると、社会的欲求、承認欲求などに当たるだろうか。人を人たらしめるためには社会に属する必要があり、社会に属するためには、その集団において人付き合いをしていく必要性があると考えられる。まあ、これに関しては持論でしかないのだが、、、

しかし、人付き合いというものを人間の根源的欲求として片づけてしまうのは、いささか乱雑ではないか。

その欲求という言葉からは、一切の合理性を排除した人間の情のみが強調されているように思われる。

実際のところ、そこには合理性が孕んでいる。子ども時代は親の存在が生命の維持に重要な役割を果たしている。また、特定の知識・技能を覚えたり、特定の利益を得るためには、一般的他者(先生、会社の上司、同僚、取引先)との関係性は重要だろう。そのように考えると人と付き合うことには一定の合理性があってしかりである。

しかし、こと友人、恋人や家族に関して、人間は情の部分を強調する傾向にある気がしてならない。友達、家族、恋人は、「大切にする」「一生の付き合い」など、語尾には共通の文言が並ぶことが多い。つまり、利害関係から離れた情による繋がりを大切にしている点で他の関係性とは一般的な価値は異なると考えられる。

私はここに関して他者と異なる価値観を有していることを自認している。情と合理性という二つの側面から形成される人付き合いにおいて、合理性と情の配分が他者と異なるのだ。

私が友人と繋がりをもつ目的として、自身の趣味嗜好の共有が一番に挙げられる。共有欲求とも呼べるだろうか。自身が面白いと思ったものを共有したいという思いが強いのだ。しかし、逆を言えば、その目的がなければ友人としての機能は果たしえないのだ。その趣味嗜好に関しても、レイヤーがあり、諸個人と対する際にどのレイヤーの話をするのかを頭の中で選択しているように思える。

そこには、漠然とした情という言葉では表しきれない合理性の世界が広がっているように思う。

そもそも、情という言葉が嫌いだ。理由もなく付き合うということが自分にとっては考えられないのだ。そこに合理性がなければ、自分の世界における他者の存在価値はどこにあるのか。そのような、情という言葉から解放され、自身の快楽(そもそもの快楽の根源について言及することは避ける)に基づいた人付き合いというものを求めてもよい気がする。それが、生きやすさにもつながるのではないかとも思っている。

人間はよく悩む。その中でも、アドラーが「全ての悩みは、対人関係の悩みである」というくらいに人間関係でよく悩む。しかし、そこに合理性を見出してみよう。相手に何を求めて、何を求めていないのかを明確にすることができる。期待する点を明瞭にすることで、余計な点に期待を割かない分、リアリティショックに打ちひしがれることはない。人間が多様な要素の集合体であるとするならば、自身と異なる要素に対して忌避反応を示す必要はないだろう。共有したい要素はどこか、相手に求める要素はどこにあるのかを考える必要がある。そうすることによって、自己と他者を相対化することができ、人付き合いという点で悩むことはないだろう。

そういった人間関係が最も自分にとって心地よく、生きていく上でのしこりを減らしてくれるような気がしている。ただ、情がないということではないことは強調しておきたい。情は、ある程度は、存在する。しかし、その情という概念が何に依拠しているかは常に問い直していき、構成概念の取捨選択をしていく必要があるという話だ。

ただ、上記のような人間関係を築く上で必要なことは、必要に応じて人間関係を断ち切ったり、合理的に関係を選択していくことが可能な環境に身を置く必要がある。そういった点で研究者という職業は自分に向いているような気がしている。中島義道のいうところの半隠遁生活だ(笑)

このエッセイの目的は、読者に考える種をまくことであるからして、少しでも他者との関係性について気づきを与えられたらうれしく思う。

Ps.である調で書く方が文章が引き締まるという当たり前のことに気づいた今日この頃。長く短い人生を今日も歩んでいます。










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