終焉とアンビバレント
どうもお久しぶりです。ラモスです。
日々の論文執筆作業・学内業務に追われNOTEを書く余裕がなく、いつの間にか半年近くも更新が滞ってしまいました。筆が進まないのは、単純にNOTEを書く時間が取れなかったというよりも、日々の喧騒の中で生活の中の小さな気づきに対して鈍感になっているためだと思います。遅筆をお許しください。そんな中でも、様々なイニシエーションに際して、自身の感情の動きを多少は感じます。今回は「終焉とアンビバレント」と題して、様々な終焉とそれに対する感情の揺れ動きについて論じていこうかなと思います。以下、である調で書きます。
グレーはグレーのままで
私は様々なことに対して矛盾を感じやすい生き物なんだと思う。例えば、男性と女性の扱いの違い、人間が発する言葉と行動の違いなど、一貫性・合理性がないことに対しては嫌気がさすほど敏感だ。それに対して、むずがゆい感情を覚えるため、私の言動はどこか冷笑主義的で、サディスティックになりがちである。ただ、矛盾が溢れているのが世の常でもある訳で、グレーはグレーとして受け入れていくのが矛盾に対する正しい向き合い方なんだとも思う。そんな中で、グレーとして受け入れきれなかったものを自身の研究テーマとして扱っている気がする。まあ、そんな事はさておき、最近様々な別れ、いわば物事の終焉を感じることが多い。
終焉感情
今回私が触れたいのは、嫌悪・同情・敬意・慈しみのような複雑に混ざり合った感情である。終焉というものに対して純粋な悲しみを抱くことも確かにあるが、それはそれまでのプロセスを総じて好意的に捉えていた場合に限るのではないか。終焉に対して抱く感情が必ずしも悲しみであるとは限らない。
死
高校2年の時の担任の先生が癌?でなくなったという訃報が届いた。それに対して自分は悲しみ・寂しさみたいな気持ちは全くなかった。というのも、高校時代、その先生に対して理不尽な扱いを受けたことを覚えているからである。しかし、周囲の感情は違った。高校時代、その先生から同じように理不尽に叱られたりした人々も、人生を終えた者に対しては悲しみ・寂しさの感情を露わにしていた。それに対して非常に疑問を感じたのである。
卒業
次は、卒業に関してだろう。
先日、大学時代の担当教員が転任することが知らされた。彼に対してお別れのメッセージを送ろうというメールが流れてきた。その担任に対して、私はいい印象を持っていなかった。尊敬できる部分が何もないのに、何でこの人はこのような地位にいるのか不思議に思ったぐらいだ。後に研究者という職業の特性を知り、彼の泥臭さ(忍耐強さ)、政治力(学内でのポジションを確保するコミュニケーション力)の凄さを知ったのだが、それはそれとして、、、
そんな彼が今年の春退任するらしい、彼に対して心から感謝している者がいるのだから、人の視点の多様さに驚かされるばかりだった。また例のごとく、大学時代彼のことをよく思っていなかったであろう人々も彼に対してお別れのメッセージを送っていた。たかが、他の大学に移動するだけなのにだ。彼に対して恨みはないが、メッセージを送る義理もない。そんな時間があるくらいなら自身の活動に精を出す。なぜこれほどまでに人々は終焉というものを価値あるものとするのだろうか。そして、私にとっての終焉の位置づけに対しても疑問に感じたのだった。
諸個人にとっての終焉の意味
なぜ終焉はそれほどまでに人々の心を動かすのだろうか。映画が終わるからと言って、その内容が面白くなかったにも関わらず涙する者はいないだろうし、つまらないゲームをクリアしたからといって悲しみを感じる人はいないだろう。むしろ、喜びを感じるのではないか。
終焉の中でも、「人と人との関係性の切れ目・節目」これに対して人間の感情は動きやすいのだ。それまでに当該人物に抱えていた感情は抜きにして、その節目が来た途端、人間には悲しみに類する感情が沸き上がる。そんなことがあっていいのだろうか。なぜこのような矛盾が起こるのか。終焉というものの希少性からきているのだろうか。このアンビバレントな感情からはそれだけでは説明できない何かがあるはずだ。
私には思い当たる節がある、これはいわゆる「恥の文化」だ。ルース・ベネディクト氏が書いた著書「菊と刀 日本文化の型」ではアメリカの「罪の文化」と日本の「恥の文化」を対照的に描き出している。様々な終焉を迎える者に対して、憎しみ・怒りの感情はTPO的に似つかわしくない。そんな感情を抱こうものなら周りの人間にどのように思われるか。皆の心の奥底にはこのような感情があるのではないか。本来であれば、怒り・憎しみの感情がストレートに来るはずが、そのような文化的な影響を受けた結果、複雑な感情が生まれるのではないかと仮説を立てる。
ではなぜ、私はこのような感情を他者と比較して終焉に対して悲しみを抱きにくい体質なのか。まず初めに、終焉というものに対してそこまで希少性を感じていないからだろう。昔、曾祖母が死んだときに泣かなかった、いや、泣けなかったのを覚えている。皆が泣いているのに、泣けない自分が嫌だったのだ。これはいわゆる恥の文化からきている感情だろう。自分にとっては死というものはいずれ誰にでも訪れるものであり、悲しみを感じるものの、それを涙で表現できるものではなかったのだろうと今では思う。次に、他者に対する無関心が挙げられる。究極のところ、他人がどうなろうと関係がない。人が涙を流すタイミングは様々だが、その一つに共感・同情の涙があるだろう。自分はあまりにも共感性が低い人間だと思う。他者の終焉から自身の終焉を想起させられる事で涙する人もいるのかもしれないが自分にはそれがない。最後に、自分は先ほどの仮説で論じた「恥の文化」を持ち合わせていないのだ。これは、先程の話と矛盾するかもしれないので、乗り越えたと言っておこう。自分の一度きりの人生だ。他人にどう思われようが関係がないというのが根底にある。もちろん、他者の目を何も気にしないで生きることは社会動物として不可能なことだ。一定程度の社会性を有しつつ、自身にとて不利益が生じる「恥の文化」に関しては無視することができる。これは自身の置かれている環境や状況を相対化しているからこそ、できることなのかもしれない。
だらだらと論じてきたが、自分がいかに変な人間か改めて痛感することとなった。皆さんには人の特定の行動に対して違和感を感じることはあるだろうか。あったら教えてほしい。共有することで自身の変態性を楽しもう。
Ps.鳥山明先生、御冥福をお祈りいたします。
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