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偽善という言葉をめぐった我々の誤解②-見えない闘い


ーはじめに:偽善が目立ってしまう理由

 前回の記事で扱った内容についてもっと細かく語ってみよう。偽善とは私たち一人ひとりの「良い人に思われたい」という気持ちから芽生えるものだ。そして人間は意識的にも無意識的にも自分の心と魂に嘘を付こうとする「慣性」を持っている。それが人間の本性だから。そのおかげで世界は良い人で溢れているふうに、せめて自分自身は良い人だというふうに、集団的かつ個別的な錯覚をしながら私たちは生きている。(この惨めな負の連鎖を断ち切りたいと思わないか?)

 しかし、人間の思考と言動のほぼ全てが嘘で偽善だと言うのはネガティブすぎる考え方なのではないかと、疑問に思われるかもしれない。それらが全部「偽り」だとしたら「本当の善」はどこにあるのか。なぜ嘘つきの偽善はこれだけ目立つのに、今も絶対にどこかで息をしているはずの善人による善は、どうして目に見えないのか。本当に、それらが存在しているのか。これらの疑問に答えていきたい。

 見えないところで悪い事をしている人ほど、他人の前では完璧に「良い人」を演技するようになる。多分彼らの無意識が、そうしないと誰にも知られずに仕出かした事がバレるのではないか、と恐れているみたいだ。

 実は自分自身に厳しい人であればあるほど、他人の前で自画自賛が吐き出せなくなる。どんなに罪を犯さず生きていこうと励んでも、自身の振る舞いがなかなか気に入らないからだ。

 偽善者が裏で人を殺してきては、あらゆる美談―真実とは限らない―を作り出して良い人ぶっている間、本当に善良な人は、昨日友達に小さい嘘をついたことでずっと良心がうずいてしまって自分がした事はなんでもない事だと、自ら良い人ではないと言ってしまったりするのだ。

 だからいつも善人の善行は表に出なかったり縮小されたりする反面、偽善者たちの美談は作り出されて膨らんで世界中に溢れるようになって、結局私たちが知っている美談の主人公は全部偽善者しか残らなくなってしまうわけだ。

-「偽善者たちがよりやさしく見える理由」中

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 私たちは「善人」と「善行」に対する認識を一から改める必要がある。善人が本当に「善な人」だとしたら、彼による思いと言葉と行動は、「一貫した善行」となる。しかし、善良な心を極めている人であればあるほど、自分の内面の悪-誠心誠意に頑張って毎分毎秒取り払って殺しても生成され続ける邪悪で狡猾な思い-に気づきやすくなる。その思いがどれだけ小さくても、望ましい自分(理想像)とはかけ離れているように感じ、さらに自身を一層下げた上で生きるようにする。最も最善なところ(理想郷)を目指す人であれば、当たり前のことなのかもしれない。善人による善を直接掴めることの難しい理由だ。

 善人がより謙虚に、より自我を殺した生き方をしている間に、偽善者は自分の善行(?)を知ってもらいたい気持ちに襲われる。知ってもらいたい感を出すのは中流だ。いつかは自分の行為が世界に知られるように、隠密に痕跡を残し、妙に匂わせた上で偶然に(?)明かされた瞬間にはびっくりした顔で「当然なことです。」とかを言う、少しハイレベルっぽい偽善者もいる。同じ偽善者という時点で優越をつけられないほど最悪ではあるが。

 したがって、私たちは世界中のあらゆる美談に惑わされる必要がない。自分がやっていることが「本当の善」に合致しているか否かのみを検閲すれば良い。


ー自分の脇を洗い流すこと

 自分自身を検閲する基準となる「本当の善」というものが一体何なのかに対して具体例を挙げながら語らせていただきたい。

 洗っていない脇に香水をつけ続けても綺麗な脇にはならぬよう、悪を洗い流さないまま善行を積み重ねても善な人にはなれない。だからある人が善な行為をしているのか、やさしそうで謙虚な言い方をしているのか、といった目に見える基準で悪人と善人を見分けるのは不可能だ。

 むしろ「善人」と「善行」の間には反比例の関係が成立するケースが多い。よく洗っているから臭いがしない人は敢えて香水をつけようとしないが、風呂に入らなかった臭い人は香水(「善行」)に死活をかけるはずだからだ。おそらく確実を期すために単に悪臭を隠すに止めず、できれば香水の匂い(「善行の美談」)が大きく広まるようにしたいという欲求を感じるだろう。

 人間は誰もが自分の中の「悪魔の誘惑」と闘うだけで精一杯だ。だから真実な闘いをしている人ならば、大きく目立つような善行をなす余裕がないのが普通だ。やっとその闘いに勝った少数の人々が善行をするとしても、他の人には気づかれないようにする。だから広まらない。世の中を駆け回っている善行の美談は、従って、大体が風に飛び回る「香水の匂い」に過ぎない。

 真正たる善行の始まりは、誰も見ていないところで「自分の脇を洗い流すこと」すなわち自身の内面の悪魔と闘うことだ。些細に見える誘惑を通して毎日少しずつ、しつこく、魂をかじってくる誘惑を振り切ることによって悪を洗い流すことだ。

 傷ついたプライドを掲げるために誰かの裏話がしたい誘惑、
 人知れずに配偶者でない人とするセックスで性欲を満たした後に、
 してないフリがしたい誘惑、
 人の功を横取りしたりこっそりとただ乗りしたりしたい誘惑、
 その瞬間を免れたり一瞬の利益のために嘘をついたりしたい誘惑、
 何かの間違いで多めに渡されたお釣りを返したくない誘惑、
 個人的な欲に大義名分を上書きして正当化したい誘惑、
 人より優越になりたい心を謙虚な顔に偽装したい誘惑、
 正しくないと言っている良心に合理化という猿轡をかませたい誘惑、


 そのほかにも数えきれない狡猾な誘惑が一日中でも十二回は生じる。誘惑に屈服したら直ちに満足を得る一方、振り切ったら即時に苦しみが押し寄せてくる。欲求が挫折されるからだ。

 しかし、苦痛を堪えて誘惑を振り切る度に、少しずつ内面に存在する良心の目が明るく、声は大きくなる。思ってもなかった過ぎ去った過ちをふと思い出すようになるのは苦しいけれど、その分誘惑を振り切る力を養ってくれる。

 そんな風に、一世一代の見えない闘いをしていたら、新たな世界が目に入ってくる。以前は自由そうに見えていた人々が実は奴隷だったこと、また愚かに見えた人々が実は真の自由を享受しながら生きていたということがわかってくる。羨ましかった人々がいきなり可哀想に見え、可哀想に見えていた人々は尊敬に値すると思えるようになる。

 そうこうしているうちに、ついには、一日中24時間をインターネットで生配信しても憚ることのない本当の自由人になる。真の自由は、隠す事がないというところから出発する。隠すべきことのある人は未だ自由に向かった旅を始めてすらいないことに気がつく。

 この頃から行う善行は、ようやく、真の善行となる。動機と過程、すべてが善良で真面目なために、誰でも嬉しく有難く受け取れるような善行となる。しかし、もう善行を表に出す必要を感じないため、密かに、誰にも知られずに隣人を助ける。その過程で大体の人間に必要な助けは物質的なものでなく精神的な何かであることがわかる。

 このように「良い人」になる道のりは、誰もが有しているが目には見えない内面の「良心」から出発する。心の中の悪魔の囁きに耐えて、勝って、頭の中の考えというものを綺麗に掃除することがその始まりであり終わりなのだ。表に出る善行は単なる副産物に過ぎない。心と良心を洗い流せていない者はどれだけ善行を積んでもこの世にカオスを招くだけだ。洗ってない脇にどれだけ香水をつけても、結局は少しずつ悪臭が現れるように。

-「善な人と洗っていない脇との相関関係」中

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 本当の良い人は、自分の中の悪魔の囁きに敏感に反応し、秒単位に押し寄せてくる悪魔の誘惑に耐えて、あいつに勝って、頭の中のちょっとした考えや気分というものを綺麗に片付けられる人だ。それによって真の自由を手に入れた-隠す事がないから恥をかくこともなく、暴露される事がないから心は常に平穏な状態の-人こそが、ようやく本当の善行をする準備ができた人なのだ。真の善行とは、その動機と過程のすべてが善良で真面目であること、かつ、その結果誰でも嬉しく有難く受け取れるようになることを指す。

嗚呼、あれは絶対臭い

 偽善は必ず違う結末をもたらす。偽善者による偽りの表情と言葉と行動は、受け手になった人やそれを目にした人の心と人生に、とんでもない影響を与え得る。その影響はすぐには見えないかもしれない。でもスノーボールのように、カビの胞子のように、偽善を目撃した人々の心には同じ種の悪の種が蒔かれて時間と共に芽生えていくはずだ。

 これら全てはさておき、偽善はそれを行う人にとって一番良くない。偽善を積み重ねるほど、自分は良い人だという思い込みから抜け出せなくなるからだ。(詳しくは前の記事を参照してもらいたい。)


ー偽善のための資源を持っているあなたへ

 それでは、次は「やらぬ善よりやる偽善」という言葉の虚しさについて語ってみよう。偽善は悪い結末に至るのみと断言するのはよろしくないと思われる方に、ぜひ最後まで付き合っていただきたい。

 経歴10年の配達員が、豊富な経験をもとに裕福な市町村と貧乏な市町村に住んでいる住民の差異についてインタビューした記事に接した。

 インタビュー内容によると、裕福な市町村の住民の場合、まずは表情が明るくて挨拶は得意で、必ず敬語を使っていて人情が熱くて、ドリンクなどの軽食をくれることがしばしばある反面、貧乏な市町村の人々は大体が暗くて配達員の挨拶を返さなかったりタメ口を使ったりするなど無礼で、お家の方も散らかしていたということだった。

 さらには、裕福な所のマンションでは警備員まで配達員に対して親切で礼儀正しいのに、貧乏な所の警備員は配達員を見下し、よそ者扱いまですると言った。

 該当記事のコメント欄にはインタビュー内容に共感する比率が遥かに高かった。怠けるせいで学びが深くない、学びが深くないから貧しくて礼儀もないのだという論調のコメントに特に共感の数が多かった。メディアでは貧しい人を良い人に描写するが、実際にはお金持ちの方は余裕があるからこそもっとやさしくて、貧しい人はより邪悪だというコメントも多くの共感を集めていた。

 確かにそうだ。我が国だけではなく、海外に出ても貧乏な市町村は汚くて立ち遅れていて、犯罪率が高いケースが多い。裕福な市町村はおしゃれで教育水準が高くて、大人子供問わず基本的な礼儀と教養を身につけていることが多い。

 しかし、それにもかかわらず、「貧しい人の方が邪悪だ」という命題は偽だ。

 貧乏さが愉快なわけがない。豊かな国で貧しく暮らしている人であれば特にそうだ。だから表情を良くすることがしんどいのも当然だ。さては日常生活での犯罪の誘惑に脆弱だ。いくらかのお金で、もしくは一瞬の快楽で犯罪者になるリスクを負う傾向が相対的に高い。長期的な人生計画を立てて、日々、長い目で生きる比率も低い。そんな町で一日でも数十名と出くわしながら配達をする人が愉快な経験をする確率は確かに低いと思われる。

 一方、裕福な町の住民は相対的に評判を重視する。本人はもちろん、子供たちにまで他人に見咎められる行動はしないように注意する。従って富裕な町の子供たちは挨拶もしっかりする。小銭を盗んだりすぐバレるはずの偶発的犯罪を犯したりしない。得するよりも損する方が大きいからだ。時には宅配や出前の配達員にお菓子をご馳走することもある。贅沢な暮らしをしていて育ちも良くて優しい自分の様子を眺めながら満足するためだ。だが、無記名で貧しい人を助ける事はほぼしない。



 権力と癒着し不正を犯す人、内部者の情報を利用して不動産投機をする人、株における反市場勢力の人も、皆裕福な町に住んでいる。麻薬を流通する人、芸能人の性売買を斡旋する人、不法な電子マネーの取扱業者、ヤミ金、詐欺師、ヤクザ、「持ち逃げ」と代表される私募ファンドの関係者も皆裕福な町に住んでいる。

 このように欲を満たすために見えないところで戦略を練って桁違いな犯罪を犯す人間は、皆が、裕福な町に住んでいる。しかしながら、彼らのことを外見から見分けることは難しい。「偽善のための資源」を持っているからだ。

 「偽善のための資源」はお金、学歴、見た目、社会的地位などだ。それらさえあれば連続殺人者でもまんまと教養深くて親切な慈善事業家になれる。貧しい町の人々は「偽善のための資源」がないだけだ。偽善の仮面を被って生きている悪者たちは、例外なく「偽善のための資源」が尽きると本性を明かすものだ。お金が無くなった不正な企業家は、その町の貧乏ニートよりも表情は暗くて礼儀知らずで偏屈で、もっと散らかった部屋に住んでいるはずだ。もし彼がこの本を読むとしたら、「俺はまた絶対に大金を稼いだるわ」と思うだろうが、問題は金ではない。彼らは何が問題なのかわかっていない。

 一緒だ。貧しい町の人も、裕福な町の人も、同じく邪悪なのだ。どこにでも良心を守って生きていく少数の善な人がいて、多数の邪悪な人がいる。ただ彼らがどんな悪行をしながら生きているのかが見えないだけだ。ただし、悪行を偽善で上書きし良い人ぶることは、その行為自体がまた一つの罪悪となるため、むしろ偽善のための資源は持っていない方がまだマシだと言えるのだ。

-「貧しい人の方が邪悪だ(?)」中

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 貧しい町の邪悪な住民たちは、周りに対して、社会に対して良い顔ができなかっただけだ。裕福な町の偽善者が持っているような偽善のための資源がなかっただけだ。(裕福な町の裕福な人々の行為が何から何まで全部偽善だと言いたくはない。良心を貫く過程で全てを諦める必要があるから、裕福な暮らしをしている時点でそれが真の善行なのか少し疑問には思うが、だとして口座の残高全部を隣人にそのまま差し上げる必要はないからだ。)彼らも、できたら配達員にも隣人さんにも優しく思われたかったはずだ。本当に優しい自分になりたかったのに、それができてなくて悲しんでいる人もいるかもしれない。日々生き延びることに精一杯な人々に、そのような余裕が持てなかったことを理由に責めたり見下したりできるものか。偽善のための資源を持っている人々が優越感を感じる理由はない。偽善のための資源を持っていない人々が自分の状況を悲観したり慰めたりする必要もない。ただ、貧しい町の人々も裕福な町の人々も、目に見える偽善も目に見える悪行も、全部一緒だと受け入れることが大事なのだ。


ーおわりに:偽善という言葉をめぐった我々の誤解②

 注意すべき点は、「偽善」が全く無くなった世界はきっと絶望的なはずだということだ。せめて良心を守りたい人にとっては、死ぬ方がマシなのではないかと思うほど混沌と罪悪に満ち溢れた世界になるはずだ。良心の呵責が感じられなくなった人々は、自分が何をしているのかすら分からないまま生き続け、自ら選んだ結末に向かって走っていくだろう。まだ良心の呵責というものを感じている人々のために、この世に体面や偽善というものが存在しているのではないだろうか。

 人間は良心を完全には捨てられない。自分のことを本気で認めてくれて好いてくれる人にだけは、泥棒だって被害を与えたくないと思う。そのように残されている一粒の良心のおかげで体面というものも、偽善というものも存在するわけだ。偽善とは最も腐っている悪であるが、それと同時に、世界をこの辺で保ってくれる存在なのだ。良心の呵責というものが感じられなくなってしまったら、皆の遺伝子一個一個から良心というコーディングが消されたら、それからは体面を保ったり偽善を発揮することすら無くなるだろう。躊躇うこともなくやりたい放題に行動するようになるはずだ。

-『BEEF』シリーズ中

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 今生きているこの世界に絶望することが多々あるが、体面と偽善が完全に無くなった恐ろしい世界を想像すると、まだ恵まれた方だなと思える。嘘と秘密と偽善で思考が麻痺してしまった人々が落とされるだろう、地獄の火炎を想像すると、まだ私たちには機会があるなと思える。

Netflixドラマ『ビーフ〜逆上〜』

PS。かなり不気味なドラマだけど、人間の汚らわしい本性がよく描かれた作品だと思う。



sorakotoba




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