ーはじめに:偽善が目立ってしまう理由
前回の記事で扱った内容についてもっと細かく語ってみよう。偽善とは私たち一人ひとりの「良い人に思われたい」という気持ちから芽生えるものだ。そして人間は意識的にも無意識的にも自分の心と魂に嘘を付こうとする「慣性」を持っている。それが人間の本性だから。そのおかげで世界は良い人で溢れているふうに、せめて自分自身は良い人だというふうに、集団的かつ個別的な錯覚をしながら私たちは生きている。(この惨めな負の連鎖を断ち切りたいと思わないか?)
しかし、人間の思考と言動のほぼ全てが嘘で偽善だと言うのはネガティブすぎる考え方なのではないかと、疑問に思われるかもしれない。それらが全部「偽り」だとしたら「本当の善」はどこにあるのか。なぜ嘘つきの偽善はこれだけ目立つのに、今も絶対にどこかで息をしているはずの善人による善は、どうして目に見えないのか。本当に、それらが存在しているのか。これらの疑問に答えていきたい。
私たちは「善人」と「善行」に対する認識を一から改める必要がある。善人が本当に「善な人」だとしたら、彼による思いと言葉と行動は、「一貫した善行」となる。しかし、善良な心を極めている人であればあるほど、自分の内面の悪-誠心誠意に頑張って毎分毎秒取り払って殺しても生成され続ける邪悪で狡猾な思い-に気づきやすくなる。その思いがどれだけ小さくても、望ましい自分(理想像)とはかけ離れているように感じ、さらに自身を一層下げた上で生きるようにする。最も最善なところ(理想郷)を目指す人であれば、当たり前のことなのかもしれない。善人による善を直接掴めることの難しい理由だ。
善人がより謙虚に、より自我を殺した生き方をしている間に、偽善者は自分の善行(?)を知ってもらいたい気持ちに襲われる。知ってもらいたい感を出すのは中流だ。いつかは自分の行為が世界に知られるように、隠密に痕跡を残し、妙に匂わせた上で偶然に(?)明かされた瞬間にはびっくりした顔で「当然なことです。」とかを言う、少しハイレベルっぽい偽善者もいる。同じ偽善者という時点で優越をつけられないほど最悪ではあるが。
したがって、私たちは世界中のあらゆる美談に惑わされる必要がない。自分がやっていることが「本当の善」に合致しているか否かのみを検閲すれば良い。
ー自分の脇を洗い流すこと
自分自身を検閲する基準となる「本当の善」というものが一体何なのかに対して具体例を挙げながら語らせていただきたい。
本当の良い人は、自分の中の悪魔の囁きに敏感に反応し、秒単位に押し寄せてくる悪魔の誘惑に耐えて、あいつに勝って、頭の中のちょっとした考えや気分というものを綺麗に片付けられる人だ。それによって真の自由を手に入れた-隠す事がないから恥をかくこともなく、暴露される事がないから心は常に平穏な状態の-人こそが、ようやく本当の善行をする準備ができた人なのだ。真の善行とは、その動機と過程のすべてが善良で真面目であること、かつ、その結果誰でも嬉しく有難く受け取れるようになることを指す。
偽善は必ず違う結末をもたらす。偽善者による偽りの表情と言葉と行動は、受け手になった人やそれを目にした人の心と人生に、とんでもない影響を与え得る。その影響はすぐには見えないかもしれない。でもスノーボールのように、カビの胞子のように、偽善を目撃した人々の心には同じ種の悪の種が蒔かれて時間と共に芽生えていくはずだ。
これら全てはさておき、偽善はそれを行う人にとって一番良くない。偽善を積み重ねるほど、自分は良い人だという思い込みから抜け出せなくなるからだ。(詳しくは前の記事を参照してもらいたい。)
ー偽善のための資源を持っているあなたへ
それでは、次は「やらぬ善よりやる偽善」という言葉の虚しさについて語ってみよう。偽善は悪い結末に至るのみと断言するのはよろしくないと思われる方に、ぜひ最後まで付き合っていただきたい。
貧しい町の邪悪な住民たちは、周りに対して、社会に対して良い顔ができなかっただけだ。裕福な町の偽善者が持っているような偽善のための資源がなかっただけだ。(裕福な町の裕福な人々の行為が何から何まで全部偽善だと言いたくはない。良心を貫く過程で全てを諦める必要があるから、裕福な暮らしをしている時点でそれが真の善行なのか少し疑問には思うが、だとして口座の残高全部を隣人にそのまま差し上げる必要はないからだ。)彼らも、できたら配達員にも隣人さんにも優しく思われたかったはずだ。本当に優しい自分になりたかったのに、それができてなくて悲しんでいる人もいるかもしれない。日々生き延びることに精一杯な人々に、そのような余裕が持てなかったことを理由に責めたり見下したりできるものか。偽善のための資源を持っている人々が優越感を感じる理由はない。偽善のための資源を持っていない人々が自分の状況を悲観したり慰めたりする必要もない。ただ、貧しい町の人々も裕福な町の人々も、目に見える偽善も目に見える悪行も、全部一緒だと受け入れることが大事なのだ。
ーおわりに:偽善という言葉をめぐった我々の誤解②
注意すべき点は、「偽善」が全く無くなった世界はきっと絶望的なはずだということだ。せめて良心を守りたい人にとっては、死ぬ方がマシなのではないかと思うほど混沌と罪悪に満ち溢れた世界になるはずだ。良心の呵責が感じられなくなった人々は、自分が何をしているのかすら分からないまま生き続け、自ら選んだ結末に向かって走っていくだろう。まだ良心の呵責というものを感じている人々のために、この世に体面や偽善というものが存在しているのではないだろうか。
今生きているこの世界に絶望することが多々あるが、体面と偽善が完全に無くなった恐ろしい世界を想像すると、まだ恵まれた方だなと思える。嘘と秘密と偽善で思考が麻痺してしまった人々が落とされるだろう、地獄の火炎を想像すると、まだ私たちには機会があるなと思える。
PS。かなり不気味なドラマだけど、人間の汚らわしい本性がよく描かれた作品だと思う。
sorakotoba