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自分の内側を吐き出す結果、『全てある』に至る話【note100日間継続・27日目】

内なる自分と繋がる時、自分の中にあるエグさを見なければいけないことがある。

内なる自分は神であることに間違いはないのだが、

同時に、内なる自分に溜めた泥のようなものも存在しているのだ。

神性を守るエゴ、だ。

エゴの弱さ、汚さ、エグさに辟易して、見れないようになっているのが普通の人の状態だ。

人は、自分を脅かすような心地悪いものを避けたい、保身の反応が動物的に身についている。

私自身も慣れてきたものの、まだビックリするようなものが出てきたりする。

全て幻なのだけど、真実だと思い込んでいるものだから、その衝撃は大きいのだ。

自分の醜さに慄き、全受容できないのは、「左脳さん、右脳さん」の著者ネドじゅんさんの仰るところの『左脳さん』の過活性だ。

そんなんじゃいけない。そんなんじゃ、社会で生きていけないよ。

と、禁止したことが自分の中に溜まっているなんて、認めたくないのだ。

だから、ドロドロの醜さになっているのだ。

しかし、ここで視座を変えてみる。

美しいものの裏には、醜いものが存在する。

また逆も然り、

醜いものだけが存在することはできず、その裏には美しいものが存在する。

美醜を超えた時、

『全てある』状態、

全肯定の状態、

宇宙や神の状態になる。

内なる汚いものを吐き出すと、

内なる美しさに届く。

吐き出したもの自体に注目や執着をする必要はない。

ただ、それがあっただけなのだ。

美しい神性の裏打ちが、あっただけなのだ。

二元のコントラストで理解するしかない今の世界では、

美しさだけが存在することはあり得ないのだ。

もちろん、醜さだけが存在することもあり得ないのだ。

すべて『ある』からだ。


『ある』を認めた時、

美醜、有無を超えた世界に至り、

どちらも同じ(ワンネス)だ(つまりどちらでもいい)という視座に立ち、

改めて二元の”好み”の方を選択するのだ。それが、この世界で肉体を使う方法なのだ。

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