![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158455875/rectangle_large_type_2_f0ec44f317fd89a6029edc53c80e0d42.png?width=1200)
自分の内側を吐き出す結果、『全てある』に至る話【note100日間継続・27日目】
内なる自分と繋がる時、自分の中にあるエグさを見なければいけないことがある。
内なる自分は神であることに間違いはないのだが、
同時に、内なる自分に溜めた泥のようなものも存在しているのだ。
神性を守るエゴ、だ。
エゴの弱さ、汚さ、エグさに辟易して、見れないようになっているのが普通の人の状態だ。
人は、自分を脅かすような心地悪いものを避けたい、保身の反応が動物的に身についている。
私自身も慣れてきたものの、まだビックリするようなものが出てきたりする。
全て幻なのだけど、真実だと思い込んでいるものだから、その衝撃は大きいのだ。
自分の醜さに慄き、全受容できないのは、「左脳さん、右脳さん」の著者ネドじゅんさんの仰るところの『左脳さん』の過活性だ。
そんなんじゃいけない。そんなんじゃ、社会で生きていけないよ。
と、禁止したことが自分の中に溜まっているなんて、認めたくないのだ。
だから、ドロドロの醜さになっているのだ。
しかし、ここで視座を変えてみる。
美しいものの裏には、醜いものが存在する。
また逆も然り、
醜いものだけが存在することはできず、その裏には美しいものが存在する。
美醜を超えた時、
『全てある』状態、
全肯定の状態、
宇宙や神の状態になる。
内なる汚いものを吐き出すと、
内なる美しさに届く。
吐き出したもの自体に注目や執着をする必要はない。
ただ、それがあっただけなのだ。
美しい神性の裏打ちが、あっただけなのだ。
二元のコントラストで理解するしかない今の世界では、
美しさだけが存在することはあり得ないのだ。
もちろん、醜さだけが存在することもあり得ないのだ。
すべて『ある』からだ。
『ある』を認めた時、
美醜、有無を超えた世界に至り、
どちらも同じ(ワンネス)だ(つまりどちらでもいい)という視座に立ち、
改めて二元の”好み”の方を選択するのだ。それが、この世界で肉体を使う方法なのだ。