【スピリチュアルに生きることへの疑い】セルフセッション記録20240813 Integrated Healing(インテグレイティッド・ヒーリング)
自分のためのメモ。身バレしたくなくて別アカウントを取ろうかと思ったけど、なんかもうめんどくさくなった。もしかしたらIntegrated Healing(以下IH)プラクティショナーの方にとっての参考や、似たような気持ちを持った方の何かになるかもしれない。という、誰になんだかわからない言い訳を述べながら、記していく。私の目的は、未来の私に向けて、今の自分がいたことを忘れないでほしいという遺言のようなラブレターなのだ。それなのに、人目を気にする自分はかなりのビビリだ。
ここ数ヶ月、自分の中の未消化の感情を一つ一つ感じていたら、すっかり闇の人になってしまった。未消化の感情を感じるのが悪いのではない。抑圧しすぎていたのだ。
気づきのペースがあがったので、今までは感じることのできなかった固く厚い重石が薄くなり、抑圧した感情が上がってくるペースが早くなった。
それを幻だといってスルーする技もあるだろう。でも私はすべての自分を受け入れるという体験をしたかった。だから逐一向き合ったのだ。
外側で起こることに反応する自分の中に、糸口がある。「今」の自分の状態を観察することと「今」の作業を、同時並行することは結構しんどかった。自分でもわかっているのに、長年の口癖を言っていたりする。「あ、今でた、」と気がつくものの、ゆっくり私自身と対話するタイミングがない。
今日はどうしても苦しくなって、Integrated Healing(IH)を自分に施した。
苦しさの源泉は、「私には出来ることなんてないよ」という悲しみ。
最近新しい事を始めたが、うまく出来ないことばかり。
前からやっている事だって、人への気持ちがうまくいかない。
やりたいと思っていたはずのものだって、全然できない。
何もできない。自分を活かしたいと思ったのに、何もできない。
悲しくなった。
私にできることをさせてください。
こどものように泣いて、かみさまに訴えた。
ふと、突然何かが変わって、洗濯をし始めた。
部屋に転がした靴下を拾ったとき、
ああ、私にできることをしているんだ、と自分の身体の動きを理解した。
一生の仕事とか自分を活かすとかじゃなくて、こんな単純なことも確かに「私にできること」だった。自分にできることを、ばかにしてたんだ。
その後、おもむろに、自分ができるヒーリングを自分に施そうと思った。
私が出来ることを、私にさせてもらいたかった。
自己破壊の解除でもやるか。テキストを部屋に取りに行った。
数年前までは結構な頻度でIHセッションを提供していたのだが、ある事情でストップした。その理由は、いずれ書けるときが来たら書けるかも、しれない。今日は、この先の自分の為にセッション内容を記録する。
●Integurated Healingの流れ
【テーマ】
スピリチュアルに生きることへの疑い
【目標】
私のスピリットを生きる
【修正】
1.ハンズオンヒーリング→胸郭へ
2.エネルギーコードの切断プロトコル
(スピリチュアルと言われるもの・あらゆるメソッドに関連するネガティブなエネルギーコードの切断)
プロトコル内の修正:「隠れているこども」の詩を読み自己対話を進める
久々に、スンとした感覚になった。
この感覚は、いわゆる波動が落ち着いた時の感覚だと思われる。
テーマの選定は、まさかのスピリチュアルに関することだった。自分的には、仕事か能力か人間関係のことだと思っていたのだ。自分の頭で思いつくテーマを筋肉反射テストでチェックしていくのだが、どれも反応せず、ハンドモードで「スピリチュアル」と出たものにヒントを得てようやく選定できたテーマだった。
過去にもよくあったのだが、自分では思っていないテーマに取り組むことがよくある。以前は人間関係で困っていたのに、選ばれるのは仕事のことばかりだった。当時は、まずは現実的に取り組みやすいテーマで環境を整えることが優先だったのかもしれない。今はおかげさまでセルフセッションが落ち着いてできる環境ではある。
テーマに基づいて、身体の奥から沸き起こるものを追いかけていくと、自分がスピリチュアルと非スピリチュアルのどっちつかずになっていることが見えてきた。根本原因としては、こどもの頃に「あれはダメ、これはダメ」と言われて本音を出せなかったこと、母と父の狭間で苦しかったこと、優柔不断(どちらかに決めるとどちらかが不満になる)、付和雷同(その時によって言い分を変える)などが出てきた。
スピリチュアルの人たちは、選民意識があって好きじゃない。交ざりたくない。かといって非スピリチュアルの人たちとは話が合わない。話すことがない。非常にどっちつかずだった。
では私はどうなりたいかというと、「私のスピリットを生きる」ことをしたかった。スピリチュアルも非スピリチュアルもどうでもいい、私を生きたい。
それがわかった段階で、久しぶりに何かが通る感覚があった。人は、目的地がわかるとそれだけで安心できるものなのかもしれない。確かに、目的地がわからないのは迷子だもんね。
修正プロトコルの途中で、気づきから発展して多動が悪さをし、ChatGPTに思い込みの論破をしてもらったり、メッセージの返信をしたりなどしつつ、自分の奥から出てきた思いは「私はマイナスもプラスも喜びを分かち合いたい」ということ。
マイナスの喜びなんて理解されにくいだろうが、感情を味わい分かち合える喜びというのは、この肉体というハードの共鳴がないと難しいことのようなので、すべての思いが宝物なのだ。本当は。
ハマりすぎるとただ苦しいだけなんだけどね。ハマってる時はつい忘れちゃうよね。感情に熱中しちゃうんだろうね。
こんな長いメモを自分であとで読み返すのかわからないけど、今の私にできる、未来の私への手紙はこれが限界。文章書くのも久しぶりだし。でもいつかきっと上手に書ける時が来る。だって私は書きたいんだから。
2000年前後に運営していた自分のHPや、2011年に始めた最初のブログ、Facebookで書く文章は、なぜか評価を頂くことが多かった。心に残る、心に響く、気づきになる、エッヂが効いている、など当時頂いた褒め言葉と褒めてくださった方々のことを覚えている。今ではお会いすることもないけれど、あの時くださった言葉を私はまだ大事にもっていて、消えそうな火を保持してくれる非常事態時の燃料のようになっています。どうもありがとう。
そう考えると、ネットに文章を書くのがだいぶ古い体験で、あれからいろんなことがあったのに、私がまだ生きてるっていう事実の方がすごいな。
過去の私、今の私、未来の私。時間なんて概念は無いと巷で聞くけれど、私にとっては愛したい歴代の自分だ。過去の自分はこれを読めないけど、未来の自分はどんな気持ちで読むのかな。楽しんでくれたら嬉しい。
また書こうと思う。またね。