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真我はこの世界よりも巨大だ。 世界の始まりの前には真我だけがあった。 その真我の海に発生した小さな泡がこの世界なのだ。 そのことを世界は知らないかもしれない。 それでも真我はいまも世界をその懐に抱いている。
真我は何も付加されていないため純粋だ。 混じり気が一切なく、わずかな曇りさえない。 無色透明で何の性質もなく、特色というものもない。 それをこの世界では純粋性という言葉で説明するかもしれない。 だが、純粋な真我が自らの純粋性を主張することはない。
真我を対象のように見ることはできない。 唯一の主体が主体自身を見ることはできないからだ。 それは誰の心の奥にも見る者として確かに存在している。 目に見えるものだけを信じる者は、この事実に戸惑うだろう。 だが、それは誰もが主体だということの証なのだ。
真我だけが現実だ。 世界は常に移り変わり、そこに確固たる現実というものがない。 真我には動きがないため、変化するということがない。 いつも同じで、そのあるがままに在る現実は変わらない。 世界が逃れられない変化を超えて、真我は存在しているのだ。