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#004_自分補完計画終了につき


 ブログで自身の身の上に起きていることを書き綴りはじめて早4年。
思春期の頃から長年悩んでいた保留事項が約30年の時を経てほぼ解決したと同時期に、平成という時代が終わり新しい時代の幕開けとなる節目な時期が重なる頃から、自身が〝発達障害〟の診断がおりたことで、後にわかった2次障害(うつ病)の治療や自助努力で行ってきたことを1度記憶を整理し記録に残しておこうと思ったことから綴りはじめてみたものの、何度も途中で筆が止まってしまっていた。
 そんな時、自分が生きている間に、再度年号が変わる瞬間に立ち合い〝令和〟に突入したことで、再度改めてPCへ向かって綴りはじめてみたものだが、どうしても途中でとまってしまう事態にみまわれてしまう。自分でも関心するほど〝続ける〟ことが難しいのが不思議とわからない。それは、私が〝発達障害(ADHD)〟だからなのだろうか?

 1度目は熊本地震が起きたことで止め、2度目はB社の企画に応募しようと思い長編の自分史を書いてみようと試みたものの、これがまたなかなか思い腰があがらず…。 ただ、自分史の長編は一旦あきらめ短編にはなるがなんとか作品を応募をすることはできた。が、落選。(落選した短編と応募しなかった短編2本は下記をご覧ください。)

◎落選した短編の自分史①…『想定外の未来』
◎応募しなかった短編の自分史②…『〝治る〟の向こう側の景色』

 それでも結果的には〝不採用〟となったことはよかったと思っている。 何故なら、その後にここ数年で日々重ねていた物事が思いもよらない〝結果〟が出たからだ。
 全世界がひっくり返ってしまうようなインパクトとはいえないまでも、成長過程で育まれただろう〝刷り込み〟や〝思い込み〟などの固定観念が丸ごとひっくり返ってしまう〝ゲシュタルトの崩壊〟のようなことが起きた。それは、自分自身を取り戻す御印のようなものだったのかもしれない。序章ってやつだ。
 それと、一度は自身が潜在的に望んでいただろう人間界でいわれる何らかのグループ、私の場合には大きい括りにするなら〝発達障害〟。さらに細かくすれば〝ADHD〟に所属でき、一度ラベリングされたこととなったのだが、例えると、サイズ感はあっているが着心地に違和感を感じどこか納得はいってはいないけれど、本当に欲しいお洋服は当時の自分には手が出せず、仕方なくその服を購入し着るほかない。といった感じだ。
 そして、自身では壁だと思ってはいなかった様々な出来事が、思いがけないころから、新たな世界への扉をみつけてしまうこととなり、今現在の私という器に辿り着くことになった。ドウシテクレヨウ、ホトトギス。

 今現在の私に辿り着くことになったのは、ゲームの世界でいわれるところの〝隠れダンジョン〟や新世紀エヴァンゲリオンで言われる〝裏コード〟のようなことだったようにも思う。 っていうか、そう思うと腑に落ちるので自分の中でそういうことにして捨て置いている。
 表裏一体という諺はどちらか片方が際立っているように大人になった今の今まで感じていたが、今現在の私には、どちらも私に〝標準装備〟されており、私という個体を相対的に知覚している人たちが、表だか裏だか私という個体の切り取られた一部の個人情報を見出し、人格指定しているだけなのだと思うようになった。
 ようは、私を知覚している人たち一人一人の受け取り方次第で、どのような人格にも照らし出されてしまう。 それが、陰にみえるのかリアルな被写体としてみえているのかの〝違い〟のようなものだ。 そして、様々な出来事を通して感じた感覚を以前なら言語化できず、自身の中でモヤモヤしたまま終わっていた物事も、こうして言語化できるようになっている。自分でも本当に不思議でならない。

 大げさだだと思われても仕方がないのだが、生きながらにして生まれ変わるなんてことができる人は、そうそういないとは思っている。 たとえそういった人が存在したとしていても稀だとは思っているのだが、人次第では、来世に持ち越すことなく現世で昇華できる(生まれ変わる)こともできるのだと思うようになった。
 ただ、来世に持ち越すことがない状態は、悟りを開いたようなことにもなるように個人的には思っているが、そうなると、後はいつ来るかわからない命の灯火が終わりを迎える日を待つだけになってしまう。 終活みたいなものになると思われるが、私はまだまだ中年。 
 そして、障害のある息子はまだ発達できる可能性を秘めている。何故なら障害の有無に限らず、心身は老いたとしても人は死ぬまで発達することができると知ったからだ。 
 後、自分なりの悟りのようなものを開いたと言えるのかはわからないが、辿り着いたことで〝いつ死んでも悔いはない〟と思っていた時期があった。ただ、うっかり死ねない物事に気づいてしまい、じわじわと生きることが楽しくなってきた。そして、生きる意味を模索していた時とは違った、新たな冒険を始めた気持ちも感じられるようになった。
 そんな状況の今だからこそ、次の新たなる冒険の始まりの前に〝発達障害〟という烙印を押されてからこれまでに体験し得たことを残しておこうと思う。


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