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#001_自分史を綴るにあたって…


 約5年程前から、はてなブログで発達障害のことに合わせて、身の上に起きていることを書き綴っていました。
 2年程前に思春期の頃から悩んでいた保留事項が約30年の時を経て、ほとんど解決したことにあわせ、平成という時代が終わり新しい時代の幕開けとなる節目の時に自身の治療や自助努力でやってきたことを記録に残しておこうと思い、自分史の公募に応募してみたものの落選。
 自費出版すればいいだけなのですが、自己資金がない状況ですので、それもかなわず…。

 基本的に長続きしない又は体調不良だったりすることで、一度に一気に書き綴ることができないことに気がついたので、脳内作戦会議をした結果、この際、3日に1度程度のペースで自身がこの世に降臨してから現在までを思いつく限り、つらつらと綴っていってみたら、そのうち終わってた…。ということにならないかと思うにいたり、こうしてNOTEで完全無料配信で発信していくことにしました。

 私は約13年前に、最近世間でも知られるようになった発達障害、その中でもADHD(注意欠陥多動性障害)ADD不注意優勢という診断を受け、その後2次障害が発覚したことから長年治療を行っていました。
※この後はADHD(注意欠陥多動性障害)はこの後ADHDと短縮し表記しております。

 幼い頃から、他者との感じ方や考え方の違いに苦しみ、世間一般でいわれる「普通」という枠におさまれば、その苦しみから逃れられると思っていました。でも、その苦しみが歳を重ねることなどで解決することはあっても、問題はただすりかわって私の中に貯蔵されていくだけでした。

 ADHDという診断をうけた後、2次障害のうつ病が発覚し治療を受けておりましたが、自身が本当に困っていた精神的な症状は、歴代主治医にハッキリと伝えられないままやり過ごしていました。
 それでも、私なりの「治った」という感覚を何度も次元上昇はされていて、その時々の私なりの「治った」という感覚はあったものの、同時にまだどこか満足できない自分も併存していました。 

 5年前の春(2016年の春)、改めて自身が全く治っていなかったことに気がつく事態に見舞われたことから、今度こそ自身の一次障害や二次障害と真正面から向き合う〝覚悟〟をしたことで、自身の過去を振り返ってみようと思うにいたり、自分史でも書いてみようといった思いが浮かんだことから、PCで綴り始めた矢先に熊本地震で被災しました。

 大きな災害に直面したこともあって、その当時の私には〝自分史〟を綴ることはまだ早いのかも…と思い一旦筆を止めました。 ただ、その書き綴ったものをまとめた『あとがき』のようなものをその当時の知人へ勇気をだしてメールを送ったことが、今となってみると、私なりの『治す覚悟』を決めた宣言でもあったように思います。 

 誰か一人にでも、自身の〝覚悟〟を伝えておくことで、その先には、出口しかない世界への扉を開いたようなものになったのですが、それからの5年は、出口はあると思ってもゴールもなければこれといった道もない場所をただただ、自分なりに切り開いていくほかなく、もがいて苦しい日々を淡々と過ごしていくほかありませんでした。本当に本当に苦しかった。
 そして、前述の知人に相談した件はスルーされ『ブログでも書いてみたら?』という返事をいただいた時は、なんだか話をすり替えられた感否めませんでしたが、それは素直に受け止めることにし、ブログで発信を始め現在に至ります。

 今から11年程前に、うつ病が悪化し閉鎖病棟へ緊急入院となったことがあり、1度社会からドロップアウトしました。そういった経緯から、当時一緒に暮らしていた、発達障害(知的障害を伴う自閉症スペクトラム)の1人息子と離れ離れの生活をすることになりました。

 母子分離となったことで私たちは、たくさんの方たちのサポートをうけながら、心身ともに元気になっていきます。そして、息子は養護施設で生活しながら学校生活を送り、私は自宅療養に集中できたことで、数年かけて、障害年金を受給しながらパートではありますが、再度社会復帰を果たすことができました。

 その時々で問題がなかったワケではありませんでしたが、それなりに私は元気になっていく中、療養中に知り合った、私を支えてくれていたパートナーとも生活を共にするまでにもなったことから、中学卒業を目前に控えていた息子と改めてもう一度一緒に暮らそうと思うようになりました。

 私の精神障害(当時は反復性鬱性障害)は治り切っていない状態でしたが、息子にとって義父になるパートナーと3人で、新たな生活を始めることも、私や息子にとって、必要だということも感じていたからです。

 それに加え、なぜ、自身の精神障害が治っていない状態で、もう一度息子と共に暮らそうと思ったのかというのにはいくつかの理由があったからです。 

 それらの理由の中の1つは、私や息子には愛着の不具合があると確信していからです。その不具合を治すためには、もう一度、母子共々、同じ屋根の下で暮らす時間が必要だと思うようになったのと、息子にとって義父になるパートナーともその当時はそれなりにより良い信頼関係ができていて、私たちなりの生活ができていたからです。

 そして、私の中だけで誰にも話していなかった最大の案件がありました。 それはどんなことかといいますと、私自身も感覚過敏が5感全てにおいて過敏で、昨今〝発達障害〟にあわせて聞かれるようになった〝HSP(ハイシー・センシティブ・パーソン※感覚処理感受性)〟があることで、『他者の感情が伝染してしまうようなことが息子にも起きているのかもしれない…』といったことを感じていたからでした。 
 その当時は、幼児期の反抗期が遅れ1次反抗期が10歳の壁といわれる時期に差し掛かったことが起因となって〝行動障害〟が起き始めたとその当時は思っていたのですが、後に、学校内に荒れているお子さんがいたことが発覚しました。そのことを知ってから、息子も5感全てが過敏であったことだけじゃなく、私と同じように他者の感情を自分事のように受け止めてしまうことで〝行動障害〟起因になっているのではないか…。といったことを疑うことになったからでした。

 ただ、その原因をつきとめるためには、どんな時にどのようなことが起因となり〝行動障害〟が起きてしまうのかを知りうるには、日々共に暮らしてみてみなければ突き止められないし、それをなんとかできるのは、我が家の場合には、同じ体質の私しかできそうもないと思ったからでした。

 その後、中学を卒業し、自宅から支援学校へ通学することとなり、息子と暮らした現在までの3年という月日の中で、何度か経験を重ねた後に、確信にいたりました。 

 それに伴い、一度は抗精神薬から漢方に切り替え、止めた投薬治療を再び開始したのが昨年の夏のことです。

 息子とパートナーと3人で暮らしはじめ、約3年経過する中で、自身のプライベートなことに留まらず、息子の学校生活やパートナーとの間でも様々なトラブルに見舞われましたが、その度に私たちなりにクリアをしていました。

 ただ、血の繋がらない親子であるからなのか、その当時は私自身が至らなかったこともあり、何かが起きても一生このまま添い遂げようと思っていたパートナーと別れることになりました。
 その後、私なりに行動はしたものの、経済的に破綻をむかえ生活が立ち行かなくなり生活保護世帯にはなってしました。

 生活保護になるまでも散々なことが起きました。保護されたことでの、不便さや不自由なこともありますが、それなりの〝幸せ〟は感じながら暮らせてはいますし、『治す覚悟』を決めた日に、私が思い描いていた景色とは違う想像を越えた未来の中で生きていますが、というよりも〝生き延びている〟状況ですが、自分なりに満足した日々を送らせてもらっています。 社会保障がある日本に生まれたことを心の底から感謝することになりました。

 3年程前にも、その時点で1度「治った!!!」といった感覚を得ていましたが、現在、それ以上の「治った」という感覚を体感しており、正直自分でも驚いているくらいです。

 ただ、その〝治った〟ということはどういうことかといいますと、『発達障害』が〝治った〟ということではなく、私自身が思春期からずっと悩んでいた、自分自身の悪癖〝度を越えた人に対する執着〟〝治った〟ということです。
 度を越えた〝執着〟なんて、まだ生ぬるい言葉かもしれません。自身で病的というか障害に値するくらいの〝執着〟。いわゆる〝依存・共依存〟といってもいいかもしれません。それらが、私自身が実感しているくらいマイルドになったのです。

 ただ、これは個人的な見解にすぎませんし、私の持っている一次障害である『発達障害』は治ってはおらず、むしろ大人になって少しは鈍感になっていた過敏体質が元に戻ることになってしまいまして、オカルトな現象も起きていますけど、ちょっとどういうことでしょう? 

 後、二次障害である『精神障害』が医学的に“治った”といえるのかどうかは私にはわかりません。 ただ、確実に私が長年苦しんでいた又は一番自身の『醜い』と思って嫌だった〝執着〟の問題や苦手だったコミュニケーションの問題、そして思春期の頃から保留事項だった〝生と死〟のことなど…。
私にとって人生のどこからかで保留にきた物事や何度も行き詰まって逃げてきた事柄のほとんどのことが、30年の時を経て全部解決してしまうことになりました。なので、今現在は、とても『楽々ちんちん♪』語尾に♪マークがつくくらい楽です。

 ただ、傍から見ればまだまだ私は成長できてないと思われているかもしれませんが…。それでも、自分ではもう十分すぎるほど成長できたと思って満足していますし、今の自分を結構気にいっています。

 また、この数年の出来事をやり過ごしていく中で、自分自身が『発達障害』に対する固定観念を握りしめていたことに気がつくことになり、私や息子のこれからのライフプランを何度か考えなおすことになり、現在岐路に経っています。

 私が発達障害や福祉医療の世界へ足を歩みいれた当時からすれば、今現在、療育バイキングといえるまでに業界は発展したと思いますし『発達障害』の認知度もあがったように思います。 息子が確定診断を受けて間もない頃の講座などでは『早期発見・早期療育』が声高に啓発されてきました。 それが功を奏したのか幼児期から障害と認定されている人たちは増えて続けていますし、大人になって確定診断を受ける人も増えてきました。私もそんな大人になり発達障害が発覚した一人です。
 
 『早期発見・早期療育』は、私たちのような幼児期は気づかれなかった当事者をなるべく早期にみつけ、その後の予後が悪くならないようにといったことで、未然に防ぐためであったと当時は思っていましたが、新しい問題の入り口にしか過ぎなかっただけで終わっているように感じています。

 それに対し、危機感を感じている人は増えてはいるようですが、個人的には、逆に疑問を持っている人が少ないなといった印象を受けています。 以前の私なら、危機感を感じても疑問は感じなかっただろうとおもいますし、だって『障害だもの』と思い〝仕方がない〟で済ませていたとおもいます。

 ただ、ここ数年の出来事で価値観が激変してしまったこともあり、私は逆に疑問を感じるようになりました。何故なら『定型発達』という概念が払拭されたからです。

 時代はどんどん移り変わっています。現代人の私たちの個体は、人の進化の過程の一部分にすぎません。ですので、固定値でありながらも時代背景に沿って変わっていくはずだったことが、なぜか、そこは、判定する人たちの〝思想〟や〝倫理観〟によって固定化されてしまうものなのだなと痛感することになりました。

 多様性の社会が望まれている現代、どこからどこまでが〝障害〟でどこからどこまでが〝定型発達〟なのかなんていう概念を捨てる時代になっているように思うのです。
 
 この『自分史』を通し、私が社会の人たちへ訴えたいことは『発達障害』や『精神障害』という障害を〝啓発〟するためではなく、これまで啓発されてきたことをぶち壊し、もっと違った方向性で〝啓発〟又は〝療育〟に関することを改めて考えなおしてもらえるきっかけになればいいなと思いが芽生えたことから、ネット上になりますが発信することにしました。

 それに加え、私は、長年何度も訪れた希死念慮がなくなり、その後、新たなる人生最大級の希死念慮が訪れた時、自分でも〝これはやヴぁい〟と思ったけれど、私には『死ぬ勇気』はありませんでした。
 で、現在、この地に残ることを選んでよかったなぁということを感じられる日々を感じることが多くなり、「生きている」ことが苦しくもなければ「生きる意味」を探す必要もなくなり、なので、私にとって今現在が本当の意味での「ニュートラル」な状態だと思うにいたっています。

 そんな私と息子の「治っていく過程」を含めた原点回帰の物語です。一人でも多くの方がこの著書を通し、何かを感じ取り、自身の苦しみの種に気がついてもらえるといいなと思います。そして、少しでも一人でも楽になる人が増えていくことを祈って…。


2020年10月6日 千晴ことsorahitoumi


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