見出し画像

【小説】奇跡 ⑤

 ウジェルは色彩を欠いたその残酷な風景の中に、真っ赤なマフラーだけを探した。ここが戦場の只中であり、常に死と隣り合わせなのだという簡単な事実すら忘れてしまうほどに、ただひたすらに。
 

 遮るものが何もない、ガラスも格子も嵌められていない窓際にウジェルは立っていた。


「身を乗り出すな!引っ込め!」
 

 ハンマドがウジェルの腕を掴んで窓から引き離そうとした時だ。後方にハンマドが弾かれたように飛んだ。そしてそのまま床に横たわったまま動かない。ウジェルは瞬時に状況を理解してその場に頭を抱えて蹲った。この場所で狙撃していたことが敵兵に気付かれたのだ。ハンマドは凶弾に倒れた。

「ハンマドさん!」

 ウジェルは匍匐前進をしながらハンマドに近付いた。ハンマドはか細く呻いていて、意識もはっきりしているようだった。

「肩を、右肩をやられた」

 
 ハンマドが息を切らしながら言う。ウジェルはハンマドの右肩をあらためる。銃弾は貫通しているようだった。身を床にかがめつつ、腰のポーチから止血のための包帯を取り出すと、ハンマドの上腕部から鎖骨に掛けてきつく巻いていった。
 

 外から二発目が撃ち込まれる様子はなかった。そうしているうちにビルの下が騒がしくなった。おそらくは、後続の部隊が到着したのだろう。小型大砲を使う兵士にどう対抗するつもりなのか。ウジェルは目を閉じて耳を澄ました。
 

 激しく銃を連射する音。バスに向けて一斉射撃を繰り出したのだろう。しかし先程の一撃の後、すでに敵兵は場所を移動しているはずだ。バスの裏はもぬけの殻だと思われた。

「ハンマドさん、銃、借ります」
 

 ウジェルは早口にそう言うと、ハンマドのライフルを手に取り、部屋を出た。その背中に向けてハンマドが何かを喚いていたが、かまわずにウジェルは階下へと向かった。
 

 二階の窓際に近付くと、すぐに壁に身体を隠す。ゆっくりと顔を外に向ける。
 

 しばらくの間、外を見ては壁に隠れる動作を繰り返していると、やがて右斜め向かいの建物の物陰に一人の敵兵の姿をとらえた。ライフルをこのビルの上方に向けて構えている。間違いなく、この兵士がハンマドを撃ったのだ。その兵士はまだ五階を警戒している。イビジスダンの一斉射撃にも気を取られてウジェルが二階から銃を構えて狙っていることに気が付く様子もなかった。
 

 ウジェルはためらうことなく引き金を引いた。脳髄をまき散らしながら後方に吹き飛んだ敵兵は、二度と起き上がることはなかった。
 

 そしてウジェルは再び五階へと駆け上がった。ハンマドの脇を抜けて窓際に近付く。先程と同様に顔を出しては隠れる動作を繰り返し、四方を隈なく観察する。
 

 そのウジェルの一挙手一投足を、ハンマドは驚愕しながら眺めていた。それは一衛生兵のする動作ではなかった。良く訓練された狙撃手のそれだったのだ。一体全体、こいつはどこでこんな動作や狙撃の腕を磨いていたのか。激しい痛みの中で、ハンマドはウジェルの無駄のない動きに目を奪われていた。

「いた!」
 

 大声でウジェルが叫び、そして引き金を引いた。激しい炸裂音が辺りに響き、瓦礫が降り注ぐ音もその後に続いた。
 

 ウジェルが小型大砲の使い手を撃ち取ったのだ。横転したバスの左斜め後方、小型のコンテナを改修して作ったダストボックスの陰に、その敵兵は隠れていた。次弾を撃ち込もうと半身を出した瞬間をウジェルは捉えた。
 

 新兵器の操り手が倒れたと知ったイビジスダン兵たちは、勝鬨を上げながら、周囲の残党狩りを始めた。街に侵入できたアラバキエル兵は少数だったから、根絶やしにされるのは時間の問題だった。
 

 ウジェルはハンマドの銃を持ったまま、フラフラとした足取りで階下へと下って行った。ハンマドもそれに続いた。二人とも、何も話さず、黙々と階段を降りた。
 

 ビルから出て、眼前に蹂躙された街の景色が広がると、ウジェルは我慢が出来ずに嘔吐した。むせ返るような死臭が辺りに充満していた。手や、足や頭部が欠損した死体が重なり合って通りを埋め尽くしていた。
 

 ウジェルがその通りの真ん中を目指して駆けていく。ハンマドが彼の行くその先を目で追うと、そこに真っ赤なマフラーが見て取れた。目を見開きながら、ハンマドもウジェルを追った。
 

 やがて二人は、マフラーの主の元へと辿り着き、悲嘆の呻き声を上げた。
 

 そこには、頭の上部が吹き飛んだ人間の死体が横たわっていて、その首に赤いマフラーが巻かれていたのだった。右手には、しっかりと銃が握られていた。それはあたかも、死してもなおこの街を自らの手で守ろうと必死に抵抗しているかのようだった。
 

 ウジェルは天を仰ぎ、両の手を掲げた。そして次にその手を胸まで下げてくると、しっかりと手のひらを組んだ。顔は天を仰いだままだ。これがイビジスダンの祈りの作法だった。目玉が飛び出るほどに天を凝視している。そしてその目から一筋の涙が流れた。
 

 ふとハンマドが、隣りで祈るウジェルを見た。

「なんてことだ」
 

 彼は驚嘆の声を上げた。それきり、言葉を紡げなかった。
 

 ウジェルの両目から、とめどなく流れ落ちる涙。
 

 それは真っ赤な血の涙だった。

(続く)

いいなと思ったら応援しよう!

蒼海宙人
サポートの程、宜しくお願い致します。これからも、少しでも良い作品を創作して参ります。サポートはその糧となります。心に響くような作品になれば幸いです。頑張ります!